秀吉が『豊臣』を名乗った本当の意味。「源平藤橘」の常識を覆す野心

Osaka, Japan, June 20 2018 : Look up view of "Toyotomi Hideyoshi" statue (ancient Japanese army general, city ruler of Osaka city and owner of Osaka castle, Born in A.D.1583) on blue sky background.Osaka, Japan, June 20 2018 : Look up view of "Toyotomi Hideyoshi" statue (ancient Japanese army general, city ruler of Osaka city and owner of Osaka castle, Born in A.D.1583) on blue sky background.
 

豊臣秀吉が隠居したと言われる伏見城。秀吉の力を象徴するように、絢爛豪華なお城だったとして知られていますが、その最後は地獄絵図だったそうです。メルマガ『歴史時代作家 早見俊の「地震が変えた日本史」』の著者である早見さんは今回、伏見城を廃墟にした慶長伏見地震と『豊臣』という姓について詳しく解説しています。

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秀吉の天下倒壊 慶長伏見地震で廃墟と化した伏見城

伏見城は秀吉の隠居城として普請されました。実子に恵まれなかった秀吉は甥の秀次を養子に迎え、関白職と政務の中心である聚楽第を譲ります。秀吉は伏見に一旦は隠居したのです。

摂政、関白を引退し、子供が摂政、関白に成った者を太閤と呼び、以後秀吉は太閤殿下と尊称されます。

秀吉以外にも太閤と呼ばれた者は存在するのですが、太閤といえば秀吉がイメージされます。大師といえば弘法大師を指す為、「大師は弘法に奪われ、太閤は秀吉に奪われる」とも語られてきました。

ご存じの読者も多いと存じますが、江戸時代、人形浄瑠璃、歌舞伎などでは、「太閤記」ではなく、「太功記」として上演されました。

作中、秀吉は、「羽柴秀吉」ではなく、「真柴久吉」、「織田信長」ではなく、「小田春長」、「明智光秀」ではなく、「武智光秀」と名前を変えています。

江戸時代を通じて秀吉は人気があり、信長は不人気でした。本能寺の変の原因も、信長の光秀に対するパワハラとして描かれます。暴君信長の虐待に耐えかねて立ち上がる光秀という構図でした。

お芝居の、「太功記」は秀吉ではなく光秀が主人公で、光秀が信長を討ってから秀吉に敗死するまでを描いています。

世にいう光秀の三日天下を描いた作品で、今日では十段目、尼ケ崎閑居の段が、「太十」と称されて上演されます。

また、太閤というと、貧しい境遇から身を起こし大成功した立志伝中の人物を、「今太閤」と呼びますね。伊藤博文、田中角栄、松下幸之助などが「今太閤」と称されました。

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