なぜ、指導する立場の人間が言うことに「一貫性」は無くてもいいのか?

Teacher and children with face mask back at school after covid-19 quarantine and lockdown.
 

新人の先生の授業を指導するとき、僕が心がけていたことは、「改善点は一つだけに徹すること」。

最初からその人の授業を見て気になることをすべて指摘したら、萎縮するばかりかパニックになってどうしていいかわからなくなる。授業に限らずなんでもそうだけど、思いつくままに三つも四つも同時に指導をしている人っているでしょ。「ほら、もうあれを忘れてる。これも教えてやったのにできてない。それに、これも教えてやったのにどうしてじっとしてられないの?それに、無駄に「え~」とか「あ~」とか言ってるのも直ってない。何聞いてたの?やる気ある?」なんて、あれは育成ではない。単なる指導者の自己満足ね。二つでもダメだ。どちらも頭から消えてしまう。器用な人でも片方だけしかできない。片方に注意をしていたら、もう片方が疎かになる。だから最初から一つでいい。

「まずは生徒の目を見て話をしましょう。それができるだけで、生徒たちは先生のことを信頼してくれますから」

と指導する。もちろん最初からうまくはいかない。でも、そのことに注意しながら何度も練習をしていると徐々に意識をしなくても、生徒の目を見て話ができるようになってくる。そうすると次の課題に取り組むことになる。

「もう少し元気な声で授業をしてみましょう。それができるだけで、授業の雰囲気が一転しますから」

とかね。

ところがここで、この指導をやめたとする。そうすると指導をされた側は「目を見て、元気よく」が「いい授業」であると思い込んで、そこにとどまってしまう。そして、「それができるだけで信頼してくれるって、あなたが言ったじゃないですか!」と主張される。でもそれは「できない今よりは」という意味でしかないのは明らかでしょ。

どんな仕事でも同じで、最初に「これをやってくれればいいから」と言われたことができることが目標ではない。「今はそれで十分」なのであって、1年後はそれでは困るのが仕事だ。場合によっては3日後だってそれでは困るのかもしれない。そしてそれは新人に限らず、ベテランでも同じである。「去年はそれでいいと言ったけど、今はそれじゃだめなの」って当たり前のこと。

それを「成長」というのだから。

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