なぜ、指導する立場の人間が言うことに「一貫性」は無くてもいいのか?

Teacher and children with face mask back at school after covid-19 quarantine and lockdown.
 

「この仕事はこれができたら一人前だ」と言われたとしても、それができたからってゴールではない。目指すべき最初の到達点をそういう言葉で教えてくれたに過ぎない。あまりに遠くを伝えると前に進もうとする気力すら無くなるから。

そう「黒帯」と似ている。白帯の人は「黒帯」を目指すでしょ。あれ、一人前の証だからですよね。でも、いざ自分が「黒帯」を締めるようになると、ようやく入り口に立ったってわかる。「初段」という名前までついてるしね。

ところが、そういう場合にも、「言われたことはちゃんとやってる」「自分は一人前になった」「悪いのは、言ってることが変わる指導者の方だ」と思う人が多い。

指導の内容は、成長の過程において途中で変わるのが「自然」なんですね。場合によっては真逆のことすらある。「わかりやすい授業」を追求するように指導していたかと思えば、一転「もっと負荷の大きい授業ができるようになれ」という指導をしたりする。逆ができなければ、ちょうどいい塩梅というのがわからないからね。

先生に限らずどんな仕事でも同じ。

「それができるようになったら次はこれ」と全然違う課題は山ほどあるのだから。

成長の過程には段階というものがあるんですね。それを無視して、「これさえできれば大丈夫」という何かを用意して指導を一貫しようとする方が無理がある。

指導というのは「あの時はあれが必要だった。でも今はこれが必要だ」というものなんですね。そのことを大前提にしておくことが、指導する側される側、お互いにとって大切だということです。

先生の指導に一貫性がないのは、先生の成長の結果だけではないでしょ。それだけ生徒の側が成長している証でもあるわけです。

「この前言っていたことと違う」を言われても、「君が成長したからね」と言えばいいだけなんですね。

一つの目標に対してや、一人の人に対して、真剣に向き合っている指導者は指導に一貫性などなくなるのは当然のことなんですね。ところが、子どもたちは(場合によっては大人もですが)自分に対しての指導の一貫性だけでなく、周囲と同じ指導すら求めるんですね。

「他の人と違うのは『ひいき』だ」とか言ってね。

そんな人に限って「みんな違ってみんないい」という詩が好きだったりするんですが(笑)。

一人の人間のなかでも、成長段階によって指導内容は大きく異なるわけですから、別の人ともなれば当然指導内容も変わってくるのは当たり前。そのことも、日頃から伝えていくことが、受け取る側の柔軟性の育成につながると僕は思っている。

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