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家康は合戦場にいなかった?最新研究で判った「関ヶ原の戦い」の真実

最新の研究で次々と明らかになりつつある、歴史の真実。そんな中にあって近年、あの「天下分け目の合戦」を巡る驚くべき新説が提示されたことをご存知でしょうか。今回のメルマガ『歴史時代作家 早見俊の「地震が変えた日本史」』では時代小説の名手として知られる作家の早見さんが、一次史料を精査して判明した「関ヶ原の戦いの実像」を紹介。さらに事実と異なるエピーソドが語られてきた理由を推測しています。

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奇が勝り、虚構が事実となった関ケ原の合戦

日本史上、最も有名且つ大きな影響を及ぼした関ヶ原の戦いは数多の小説、映画、ドラマで繰り返し描かれてきました。いずれもドラマチックに徳川家康の勝利、石田三成の悲運が語られます。

ところが、近年、一次史料の研究と関ヶ原古戦場の発掘調査が進み、従来とは異なる合戦の実相が提示されています。歴史ファン、戦国時代好きには受け入れがたい新説なのですが、この方がリアルではあります。

まず、新説ではお馴染みの関ヶ原布陣図に疑問が投げかけられました。関ヶ原で東軍、西軍が対峙した両陣営の様子は様々に転用され、これを知らない戦国ファンはいないでしょう。布陣図を語る際に添えられるエピソードが明治時代に来日したドイツ軍人、ウイリヘルム・メッケルの言葉です。

メッケルはドイツ陸軍の参謀将校で明治政府に招かれ、陸軍大学校の講師をしました。メッケルは布陣図を見て、西軍の勝利だと断じます。西軍の主力は関ヶ原を囲む山々に布陣し、眼下に展開する東軍を包囲しているからです。山を下って攻撃をかければ、東軍は袋の鼠でした。

それなのに、東軍の大勝だったと聞き、メッケルは驚きます。

山に陣取った西軍主力がほとんど動かず、更には最大の軍勢を率いていた小早川秀秋が東軍に寝返って西軍を急襲した、と知ってメッケルは納得したのでした。

布陣図は明治時代になって陸軍参謀本部が作成しました。参謀本部は参謀養成に役立てようと、日本史上で行われた重要な合戦を研究、編纂します。当時は正しいと信じられていた史料を基に関ヶ原布陣図を作成したのです。

新説を提示する学者方はそもそもこの史料が怪しい、と指摘します。東西両軍の布陣や小早川秀秋の裏切り、裏切りを促す家康の問い鉄砲は、いずれも関ヶ原の合戦後、80年以上が経過してから作成された史料に記載されたものなのです。

一次史料と呼ばれる同時代の史料、すなわち合戦に参加した者たちの手紙や日誌、日本各地の伝聞を丹念に集め、精査すると伝えられてきた有名エピソードは全く見当たらないと判明しました。

一次史料では家康は関ヶ原近くの赤坂に陣取ったまま合戦が終わり、小早川秀秋は合戦の途中ではなく、戦端が開かれると同時に東軍に寝返り、世紀の大合戦は一時(約2時間)であっけなく勝敗が決まった、と伝えているのです。

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新説による合戦の展開は以下です。

小早川秀秋の軍勢が眼下に布陣していた西軍の大谷刑部の軍勢に襲いかかり、それを見た石田三成、宇喜多秀家は助勢しましたが、大谷勢は壊滅、そこへ東軍主力が駆けつけ、三成、秀家勢を攻撃、三成と秀家は呆気なく敗走したのでした。

筆者は岐阜市出身ということもあり、関ヶ原古戦場には何度か足を運びました。古戦場は関ヶ原ウオーランドというアミューズメントパークになっています。東西両軍の陣地と伝わる地には記念碑や旗印が立っていました。

石田三成の陣と伝わる笹尾山は1980年代に発掘調査が行われました。しかし、陣の遺構は発見されなかったのです。その調査レポートを筆者は読んだのですが、筆者を含め深く関心を寄せる意見は聞かれませんでした。発掘調査の不備で見つからなかったのだろう、という扱いだったのです。

時が流れ、新説が提示されて新説に基づいた発掘調査が行われました。すると、笹尾山ではなく新説が提唱した三成の陣地から土塁や堀といった陣地の遺構が見つかったのです。1980年代の発掘調査は決して不備ではなかったのですね。

どうやら、新説が関ヶ原の合戦の実像を示しているようです。

では、どうして従来伝わる関ヶ原の合戦が語られてきたのかというと、徳川家康の神格化と合戦に関わった武将の末裔がご先祖さまの武功を飾りたかったから、と推測されます。

呆気なく東軍が勝利したのでは有難味がありません。東西両陣営が一進一退を繰り広げていた戦局を、家康が小早川秀秋の寝返りを誘って優勢に転換させた……秀秋を裏切らせるにあたって秀秋の陣に鉄砲を放った、いわゆる問い鉄砲のエピソードが作られたのです。

まかり間違えば鉄砲を撃たれた秀秋は家康を攻撃するかもしれないのに、秀秋を脅した家康の豪胆さを称えたのです。豪胆といえば、家康が本陣を置いたとされてきた地は毛利の大軍が陣取る南宮山の麓、毛利勢が山を駆け下れば家康の陣地は蹂躙されました。それにもかかわらず、神君家康公は敵の眼下に堂々と布陣していた、と後世の御用学者は家康像を作り上げていったのです。

繰り返しますが、新説では家康は関ヶ原の合戦場にはいなかったのです。

事実は小説よりも奇なり、と言いますが、関ヶ原の合戦は奇が勝り、虚構が事実となっていったようです。ちょっと、ずれているかもしれませんが、幽霊の正体を見たり枯れ尾花、といったところでしょうか。

(メルマガ『歴史時代作家 早見俊の「地震が変えた日本史」』2022年9月23日号より一部抜粋。この続きはご登録の上、お楽しみください)

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image by: Shutterstock.com

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1961年岐阜県岐阜市に生まれる。法政大学経営学部卒。会社員の頃から小説を執筆、2007年より文筆業に専念し時代小説を中心に著作は二百冊を超える。歴史時代家集団、「操觚の会」に所属。「居眠り同心影御用」(二見時代小説文庫)「佃島用心棒日誌」(角川文庫)で第六回歴史時代作家クラブシリーズ賞受賞、「うつけ世に立つ 岐阜信長譜」(徳間書店)が第23回中山義秀文学賞の最終候補となる。現代物にも活動の幅を広げ、「覆面刑事貫太郎」(実業之日本社文庫)「労働Gメン草薙満」(徳間文庫)「D6犯罪予防捜査チーム」(光文社文庫)を上梓。ビジネス本も手がけ、「人生!逆転図鑑」(秀和システム)を2020年11月に刊行。 日本文藝家協会評議員、歴史時代作家集団 操弧の会 副長、三浦誠衛流居合道四段。 「このミステリーがすごい」(宝島社)に、ミステリー中毒の時代小説家と名乗って投票している。

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【著者】 早見俊 【月額】 ¥440/月(税込) 初月無料 【発行周期】 毎週 金曜日 発行予定

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