ヒルガタワムシという多細胞の微小な動物がいる。全世界に450種ほど分布し、そのすべては単為生殖で子孫を残し、約4000万年前から生き延びている。両性生殖で遺伝的多様性を担保しなくても、絶滅しない生物もいるのである。ただ、ヒルガタワムシは、他の生物から水平伝播でDNAを取り込んで、遺伝的多様性を保っているので、遺伝的多様性が保たれなければ、種(または種の系列)は長く生き続けられないというのは本当かもしれない。
生物は生き延びるために生殖方法を編みだしたわけではなく、無性生殖、両性生殖、単為生殖という基底の構造の下で、生き延びる方法を発見したのである。すなわち、機能が構造を作ったのではなく、構造の許す範囲で、機能が随伴した訳だ。
機能第一主義に頭の隅まで支配されている生物学者は、何であれ、生物の形質は、その形質を持つ生物の生存に資する、とア・プリオリに考えることが多く、ある形質を持っているにもかかわらず、生物は生存することも可能だとの考えには思い至らない。
ヒトは体毛を失った哺乳類で、体毛の喪失は耐寒性という観点からは明らかに不利である。多くの進化論者が、体毛の喪失には何か適応的な意味があるという考えに縛られて、様々な仮説を唱えてきた。例えば、人類は海辺で進化したとか(エレイン・モーガン)、ヒトの裸化は性選択の結果だとか(チャールズ・ダーウィン)いった説は、機能第一主義のなせる思考パターンの典型である。
私見によれば、ヒトの裸化は何らかの機能のために進化した訳ではなく、機能とはとりあえず独立の形質として現れたのであって、確かに耐寒性という観点からは不利であったが、それにもかかわらず、人類は凍死して絶滅することはなかっただけなのだ。おそらく、外胚葉の発生過程で、何らかの遺伝的な変異が生じて、脳が巨大化した(あるいは言語を獲得した)随伴形質として不可避に生じたのであって、適応的な意味はないのだ。
巨大な脳を獲得して賢くなったヒトは、寒さを防ぐために火を使用したり毛皮をまとうようになったが、火を使用したり、毛皮をまとうために、脳が大きくなったわけではないのは、普通に考えてみれば当たり前である。脳が大きくなった結果、様々な道具を作れるようになったのだ。従って、ここでは道具は機能のために作られたという機能第一主義は有効な考えとなる。しかし、脳をはじめとして、様々なヒトの器官は、機能のために作られたわけではなく、作られた後で、機能を発見したのは自明であろう。(メルマガ『池田清彦のやせ我慢日記』より一部抜粋。続きはご登録の上お楽しみください、初月無料です)
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