数年前から世界中で大ブームを巻き起こし、今やスタンダードとして定着した感のある音楽ジャンル、シティ・ポップ。音楽業界では山下達郎と大貫妙子の在籍したバンド「シュガー・ベイブ」が“シティ・ポップの先駆け”ということになっていますが、シュガー・ベイブとほぼ同時期に活動しながら、最近までその存在さえ知られていなかった幻のバンド、滝沢洋一と「マジカル・シティー」をご存じでしょうか? 彼らこそが、昨今の世界的シティ・ポップブームの礎を築いた重要なバンドであることが、約3年近くに及ぶ関係者たちへの取材によって明らかになりました。本連載では、今まで日本のポップス史の中で一度も語られることのなかった、彼ら5人による「シティ・ポップの軌跡」を、発見された大量の未発表音源とともに複数回にわたって掲載いたします。
※【追記】2025年1月8日、元マジカル・シティーの新川博さんが69歳で急逝されました、ここに哀悼の意を表します。なお、本記事は公開当時のままの表記とさせていただきます。
※本記事の英訳版を公開しました。
連載記事アーカイヴ
● 【Vol.1】奇跡的に発見された大量のデモテープ
● 【Vol.2】デモテープに刻まれていた名曲の数々 (本記事)
● 【Vol.3】達郎も秀樹も気づかなかった「真実」
マジカル・シティーの名付け親「滝沢洋一」の生い立ちと数奇な運命
(Vol.1からの続き)2015年に初CD化された唯一作『レオニズの彼方に』(1978/東芝EMI)が「シティ・ポップの名盤」「奇跡の一枚」と高く評価されているシンガー・ソングライター、作曲家の滝沢洋一(2006年に56歳で逝去)。
滝沢洋一『レオニズの彼方に』(1978)
滝沢のバックバンド「マジカル・シティー」として、ミュージシャンのキャリアをスタートさせた以下の4人だが、その豪華な顔ぶれは今まで日本のポップス史の中で語られてこなかったことが不思議なくらいだ。
東京・市ヶ谷にて。左から滝沢洋一、マジカル・シティーメンバーの牧野元昭(中段上)、青山純(中段下)、新川博(右) 画像提供:滝沢家
マジカル・シティー
ドラム:青山純
ベース:伊藤広規
キーボード:新川博
ギター:牧野元昭
彼らにとっての「キーマン」は、バンド名の名付け親であり、彼らが演奏したオリジナル曲のソングライターの滝沢洋一である。彼の音楽活動と生い立ちを辿ることで見えてきたのは、この世界的「シティ・ポップ」ブームを呼んだ“奇跡的な出会い”の数々であった。
滝沢洋一は、外務省の外交官だった父の長男として1950年3月9日に東京で生まれ、生後まもなく父の赴任先であるアメリカ・オレゴン州ポートランドで3歳までを過ごす。
米ポートランドにて外交官だった父、近所の子どもたちと。写真提供:滝沢家
帰国後は小学2年生まで日本で過ごし、今度は中東イランの首都テヘランへ。そして11歳となった小学5年生でようやく日本に定住した。幼少期の海外生活が長かったことで、日本語の、とりわけ漢字の読み書きに対する劣等感は大人になった後にも残っていたという。
海外生活の中で洋楽に慣れ親しんでいたことが、彼の音楽性に大きな影響を及ぼしたことは想像に難くない。事実、滝沢は後に発売するシングル『マイアミ・ドリーミング』(1980・RCA)のプロフィール欄に、
「ポピュラー好きの父親についての海外生活の体験で得た洋楽センス溢れた曲作りと、さわやかなVocalが特長」
と記している。
ビートルズ、フォークギター、そして「ロビー和田」との出会い
そんな滝沢は、中学生のときにXmasプレゼントとして買ってもらった3000円のギターで、日本でも社会現象を巻き起こしていたザ・ビートルズのコピーを始める。玉川学園高等部に入学してからは、友人らとともに、あのマイク眞木を世に送り出した「MRA」(道徳再武装運動)というフォーク団体に加入した。
玉川学園高等部時代の滝沢。写真提供:滝沢家
そこで出会ったのが、眞木の後継の地位を獲得していたフォーク歌手で、のちに日本初のフリー音楽プロデューサーとして和田アキ子や西城秀樹、松崎しげるらの大ヒット曲を手がけることになる、ロビー和田(和田良知)であった。
和田は66年、MRAのフォークグループを糾合し、500人を超える大グループ「レッツ・ゴー・66」を創設して、伝説の武道館ライブを敢行した人物として知られている。その和田に才能を認められていたのが、高校時代の滝沢であった。この和田との出会いが、のちに滝沢らの運命を大きく変えることになる。
そんな滝沢が若き日に録音したと思われる音源がオープン・リールの形で発見された(前回記事参照)。ギター弾き語りによる宅録曲「やさしい氷」は、まだ10代とおぼしき滝沢の美しい声で歌われている(スマホで楽曲を再生する場合はListen in browser の文字をクリック。以下同)。
そして、グループ・サウンズの影響が色濃く出ている、バンド演奏による「僕が愛したその人を」は今聴いても新鮮だ。
滝沢はMRAの活動と並行して、玉川学園の音楽好きを集めたTLMS(玉川・ライト・ミュージック・ソサエティー)を結成。このTLMSの活動の中で、滝沢は「フォークでもロックでもジャズでもない」独自の音楽を創り上げていった。この前後に作曲した楽曲の一部が、滝沢宅から発見されたオープンリール・テープに残されていたのである。
こんな曲もある、「ステーションエレジー」。録音年は不明だが、おそらく60年代後半から70年代初頭にレコーディングされたと思われる。サイケデリックな曲調にジャズ風のアレンジを施した、この時代ならではの重厚なサウンドが耳に心地よい。
スキーにハマり音楽活動を休止も、入院で再び音楽の道へ
ところが、滝沢は玉川大学へ進学した頃にスキーにハマり、1級の免許を取得してからスキーのインストラクターとして山小屋でアルバイトを始めるようになった。スキーに夢中になるあまり、音楽活動からは足が遠のいてしまったのである。
しかし、ここで予期せぬ転機が訪れる。滝沢の持病である「B型肝炎」が悪化してしまい、体調不良のために長期入院を余儀なくされ、スキーのプロとして生活する夢を断念せざるを得なくなってしまったからだ。
スキー学校でインストラクターをしていた頃。写真提供:滝沢家
入院生活を送る中で、滝沢は病室に置いたラジオから流れる音楽を聴きながら、洋楽の美しい旋律に魅せられて、再び音楽と向き合うようになった。そして、病室のベッドの上で作曲を始め、退院後に作った曲をデモ・テープに吹き込むようになっていたという。
退院した滝沢は、父親の勧めでコンピュータ・プログラミングを学ぶ学校へ通ったり、アルバイトをしながら作曲を続け、デモ・テープ作りに励んでいた。そして、MRAで知己を得ていたロビー和田を久しぶりに訪ね、書き溜めていた楽曲のデモを持参して聴かせる。
その頃、和田はビクター音楽産業の事業部である「RCAレコード」の契約ディレクターとして、和田アキ子『笑って許して』(1970)やヘドバとダビデ『ナオミの夢』(1971)、西城秀樹『傷だらけのローラ』(1974)などのヒット曲を次々と世に送り出したヒット・ソング・メイカーだった。
そして当時、あのチャールズ・ブロンソンの出演した「うーん、マンダム」でお馴染みのCMソング『マンダム〜男の世界』(1970。ジェリー・ウォレス歌唱)を別名義で作詞・作曲し大ヒットさせている。和田は歌手として自身が前に出るよりも、裏方の「作る側」に回っていたのである。
滝沢が宅録で吹き込んだ一曲「一人ぼっちの君」を聴いた和田は、その曲をいたく気に入り、RCAが売り出していたアイドルグループ「チャコとヘルス・エンジェル」のシングル『嘆きの指輪』(1974)のB面に採用。これが滝沢の「作曲家デビュー」となった。滝沢はこれを機にRCAと作家契約を結ぶことになる。
そんな滝沢が宅録で吹き込んだ自身の歌唱による「一人ぼっちの君」の音源は、同じオープン・リールテープに収録されていた。このデビュー曲は、詞・曲ともに滝沢だ。
肝臓の持病により3度目の入院となった頃、滝沢は同じ病院に入院していた8歳年下の女子高校生と恋に落ちる。その高校生こそが、後の滝沢の妻である。1974年秋のことであった。その頃、すでに「一人ぼっちの君」のシングル発売が決まっていた滝沢は、病院内の庭のベンチで彼女にビートルズのほか、ギルバート・オサリバンの曲をよく弾いて聴かせていたという。
その当時の自作曲の音源が1本のカセットテープの中に残っていた。
女性の言葉で綴られた美しく静かな名曲「凍った時計」。滝沢の透き通るような歌声は、50年近くを経た今聴いても色褪せない魅力を放っている。
シティ・ポップの運命を変えた、新川と青山の邂逅
滝沢のバックバンド「マジカル・シティー」の歴史を語る上で外せないのが、キーボードの新川博とドラムの青山純の出会いである。この二人が滝沢の前に現れるまでに、どのような経緯があったのだろうか。新川が、青山と初めて顔を合わせた日のことを回想する。
新川「高校生の時に付き合ってた彼女が、“うちの高校にもドラムの上手い子がいるよ”って紹介してくれたのが最初。1973年頃かな、俺は世田谷区の瀬田に住んでいて、青山は上野毛に住んでるって言うから会いに行ったわけ。普通、高校生だったら日曜日って家にいないじゃん。でも、青山は日曜なのに家にいてドラムを磨いてるんだよ(笑)。色白の少年でさ」
その後、新川はまだ高校生だった青山を、自身がキーボード奏者として手伝っていた慶應大学の「黒人文化研究会」というサークルのディスコ・バンド「ファライースト」のボーヤとして誘う。
すでに高校の時からヤマハのドラムスクールに通っていた青山は当時「KANN」というジェネシスのコピーバンドを組んでいたが、ファライーストではそのドラミングを披露することはなかった。青山は、のちに新川から誘われた滝沢のバックバンドでようやくオリジナル曲のドラムを叩けることになる。
牧野と新川の邂逅。そしてバックバンド結成へ
75年、滝沢は当時暮らしていた、外交官の家族専用の学生寮である「子弟育英寮」(東京・市ヶ谷)にて、寮の後輩で慶應義塾大学の学生であった有本俊一から、彼のバンド仲間たちを紹介される。そのバンドとは、先に述べた慶應のディスコ・バンド「ファライースト」のことである。有本はファライーストでトランペットを担当していた。
「こちら、寮の先輩でRCAレコードと契約をしている滝沢洋一さんです」
有本が滝沢を紹介したのは、ファライーストのメンバーで日大芸術学部の学生であったキーボードの新川博、ファライーストでボーヤをしている高校を卒業したばかりの青山純、新川の4歳頃からの幼馴染で中古のフェンダー・ジャズ・ベースを持っていた明大生の村上“ムンタ”良人であった。
さらに後日、新川が連れてきたのは、Char在籍のバンド「バッド・シーン」の元ギタリストである牧野元昭。滝沢の初代バックバンドは、この4人で始まった。
市ヶ谷・育英寮にて。上から牧野、滝沢、青山の各氏。写真提供:滝沢家
牧野が、当時のことを述懐する。
牧野「新川と自分との出会いは、1971年頃だったと思います。私は当時<バッド・シーン>というバンドにおり、新川は<三人バンド>というトリオでベースを弾いていました。まだ今で言うライブハウスがあまりない時代で、学生の有志がお金を出し合ってコンサートを開く事が多かったのですが、新川とはそういった中で知り合いになりました。新川はベースだったので、彼がキーボードを弾くとは知らなかったんです。二人とも、当時やっていた音楽はロックだったと思います」
新川と牧野が知り合ってから4年後の1975年。牧野宅に一本の電話が入る、電話の主は新川だ。牧野は電話でこう告げられたという。
「今度、RCAレコードからデビューする予定の、滝沢洋一というシンガーのバックバンドに入らないか?」
新川は、小学生時代にギタリストのCharと同級生で、11歳から13歳まで同じく同級生の三浦氏とCharとでスリーピースバンド「FOX」を組んでいた。つまり牧野とは「Charとバンドを組んでいた」という浅からぬ縁とも言える共通点があったことになる。
新川、青山、村上、牧野の4人を紹介された滝沢は、自作曲を演奏するバックバンドのメンバーに彼らを誘った。このときはまだバンド名を「マジカル・シティー」とは命名していなかったという。バックバンドの旗振り役は、メンバーを集めた新川だ。
こうして4人は、滝沢と有本が住む市ヶ谷の育英寮へ頻繁に出入りし、寮内などで演奏の練習を繰り返していたという。滝沢の自宅から見つかったテープから推測すると、75年の夏頃からバンドの練習に励んでいたものと思われる。滝沢宅からはこんな音源が見つかった。
正式なタイトルは不明で、音質もテープの劣化が進んでいるため頗る悪いが、「トマトトマトトマト」と連呼するサンバ調の一曲は、歌詞のメタファーもウィットに富んでいて面白い。彼らが連日のように滝沢と会って、バンドの練習に明け暮れていたことがわかる。
名スタジオ「音響ハウス」で収録された4曲のデモ
高校時代に所属のフォーク団体でつながりを持ったロビー和田の計らいで、1974年にRCAレコードと作家契約を結んだ滝沢。彼は75年頃からオリジナル曲の作曲を続け、自身のバックバンドとともにソロデビューの機会をうかがっていた。
その機会は年明けすぐに訪れた。76年1月22日、西城秀樹や角松敏生などを担当したことで知られるRCAレコードのディレクター・岡村右(たすく)が音頭をとる形で、東京・銀座のスタジオ「音響ハウス」にて、滝沢と4人のデモ・テープ録音がおこなわれたのである。その目的は、滝沢をRCAからソロデビューさせるためだ。岡村が当時を振り返る。
岡村「滝沢さんは、最近で言えばキリンジのような音楽を75年頃に志向していました。でも早すぎたのか、当時の日本で流行っていた音楽とは合わなかったんです」
75年といえば、フォーク調の歌謡曲や演歌が全盛の時代である。山下達郎・大貫妙子らのシュガー・ベイブが大瀧詠一の「ナイアガラ」レーベルから船出したこの年、洋楽志向の日本語ポップスは、まだまだメインストリームの音楽ジャンルではなかった。
この音響ハウスでのデモは、たった4曲のみの録音であった。しかし、のちに滝沢の唯一作となるアルバム『レオニズの彼方に』のタイトルナンバー原曲「南の星へ夜の旅」や、かつて滝沢がフォークギター片手に歌っていた「やさしい氷」などの楽曲が滝沢と4人、そしてフルート・サックスを担当した成蹊大生の加部某によって収録された。
では、新川の幼馴染だった村上“ムンタ”良人が、滝沢のバックバンドのベースとして参加した最初で最後のスタジオ録音の4曲をお聴きいただきたい。前回ご紹介した「南の星へ夜の旅」に続いて、「もう泣かないで」「思い出の電話通り」そして、「やさしい氷(RCAテイク)」。
この録音では、青山が18歳とは思えぬ卓越したドラムプレイを全曲に渡って聴かせ、新川の美しいピアノはすでにアレンジャーとしての才能が垣間見えるものとなっている。19歳の牧野は「もう泣かないで」の中で色気あるギターソロを奏で、村上は温かみのあるベースを披露。そして、わずかに聴こえる滝沢のアコースティック・ギターの美しい音色が、聴く者の耳をやさしく包み込んでゆく。
また、新川経由で呼ばれた成蹊大学の学生だった加部という人物が、フルートとアルトサックスの名演を残している。デモ・テープとはいえ、これらの楽曲は本番のレコーディングさながらのハイクオリティーなアレンジに仕上がっていた。
しかし、この収録のあとに滝沢のバックバンドはベーシストが交代する。村上の後任ベースとして加入したのが、のちに青山純とともに山下達郎バンドで長年活躍することになる、あの伊藤広規だった。
ベーシスト伊藤広規の誕生と、青山との出会い
実は、前述の「ファライースト」でベースを弾いていたのが、のちに滝沢のバックバンド二代目ベーシストとなる伊藤広規だ。伊藤は、高校時代の友人と組んだ「ライム」というバンドで初めてギターを担当し、当初はギタリストとしてバンド活動をおこなっていた。
そのライムは、冬季のスキーシーズンの間だけ、長野県の志賀高原にある「志賀ハイランドホテル」の箱バンとして、泊まり込みで働いていたという。その箱バン仕事とは、同ホテルの「モア」というディスコ・ラウンジでおこなわれていたライブでバッキングを担当することだった。“志賀高原用”に組まれていたメンバーは「ブラックリスト」というバンド名で呼ばれていたという。ここでは、内田裕也やカルメンマキ&OZ、渡辺貞夫、日野皓正などの大物ミュージシャンや歌手のライブが連日おこなわれていたというから、今では考えられないほど贅沢なライブ会場だ。伊藤は、この演奏会場「モア」についてこう語る。
伊藤「もう最高に盛り上がっていました。当時、スキー場のディスコは六本木よりもオシャレなアミューズメント・スペースだったんです」
ここで伊藤は、カルメンマキ&OZのドラムとして来ていた長谷川康之(牧野と同じ「バッド・シーン」元メンバー)と知り合い、後日ホテルを再び訪れた長谷川から、ある誘いを受ける。
「ファライーストというディスコ・バンドでドラムをやっているんだけど、ベースとして加入しないか?」
これを機に、伊藤はギタリストからベーシストとしての人生を歩むことになった。伊藤が述懐する。
伊藤「ギタリストだったらベースできるんだろ?っていう感じで、そのファライーストで初めてベースを弾くことになったんです。当時は自分のベースギターを持っていない状態で、人からベースを借りて演奏していました」
こうして誕生した「ベーシスト伊藤広規」は、同じファライーストのメンバーである新川の自宅へ遊びに行った際、まだ高校生だった紅顔の少年・青山を紹介される。新川が部屋で横になっている青山を指差し「こいつ、ドラムの青山純って言うんだよ」と紹介すると、伊藤は「ふーん、そうなんだ」と関心なさげに答えたという。
そんな会話がなされた後、伊藤は青山の口から出た一人称「僕」に衝撃を受ける。東京・足立区生まれで一人称を「俺」で通してきた伊藤は、大田区・世田谷区育ちの青山の「僕」に大変驚いたという。初対面にも関わらず「ボク、だってよぉ!」と笑った伊藤だったが、のちに日本のシティ・ポップを牽引することになる“黄金リズム隊”の二人は、こうして新川邸で運命の出会いを果たすこととなった。
滝沢が命名した「マジカル・シティー」
ファライーストをキッカケに、新川が青山、牧野、村上の3人を誘って滝沢のバックバンドを結成。しかし、村上は音響ハウスでの録音(76年1月22日)が最後の参加となった。村上の後任ベースとして、76年1月以降に伊藤広規が加入。バックバンドに伊藤が入ったことで、ここから「真正マジカル・シティー」の歴史が始まることになる。なぜなら、滝沢から「マジカル・シティー」というバンド名を与えられたからだ。牧野と伊藤が命名当時のことを記憶していた。
牧野「そのマジカル・シティーという名前は、滝沢さんが命名したんだよ」
伊藤「俺は覚えてるよ。六本木にあったデリーっていうカレー屋で名前が決まったんじゃなかったかな。STUDIO BIRDMANの下にあった店。当時マネージャーがいたよね、篠原っていう慶應の学生。いつの間にかいなくなったけど(笑)。“世界のマジカル!”とか言って盛り上がってたんだよ」
かくして、滝沢洋一のバックバンド「マジカル・シティー」は、正規のメンバーである新川、青山、牧野、そして伊藤が揃い、76年初旬に誕生した。
青山と伊藤が初めて共演した伝説のライブ
では、4人が初めてセッションしたのは何時だったのか? 伊藤の記憶では、青山が叩いたドラムを初めて聴いた場所が「志賀ハイランドホテル」だったという。新メンバーの伊藤が、スキー場の箱バン仕事で東京へなかなか帰って来ないので、バンドメンバーみんなで志賀まで迎えに行くことになったらしい。
志賀ハイランドホテルの初ライブ当日の様子。滝沢家提供
伊藤「初めて青山のドラムを聴いたのは、志賀高原でバンド演奏するっていうことになって、新川と青山と、あと何人かで。その時に初めて何曲か演奏して、結構オカズもしっかり叩けてて、はっきりしたドラムだなという印象でした」※BSフジ「HIT SONG MAKERS 〜栄光のJ-POP伝説〜」青山純追悼SP(2014年12月20日放送)より
この“あと何人か”とは、おそらく滝沢と牧野のことだ。そして伊藤が記憶していたバンド演奏とは、76年初めにおこなわれた「マジカル・シティー」名義による志賀ハイランドホテルでのライブ演奏のことである。つまり、これが青山・伊藤の初セッションということになる。
作詞・作曲の滝沢がボーカルとサイドギター、キーボード新川、リードギター牧野、そしてドラム青山、ベース伊藤の「真正マジカル・シティー」がこの世に誕生した瞬間だった。
このライブの録音テープが滝沢宅に保存されていた。この音源の中で、そのバンド名は司会者の「マジカル・シティーの皆さん」という声でハッキリと記録されていたのである。同ライブでは、音響ハウスで録音された「もう泣かないで」「南の空へ夜の旅」「思い出の電話通り」の3曲と、最後にメンバーによるオリジナル曲「マジカル・シティーのテーマ」の合計4曲が演奏されている。約11分と長めだが、この歴史的な音源をぜひお聴きいただきたい。
ラジオの公開録音で飛び出した「ニューミュージック」発言
牧野が、この時のライブに関して面白いエピソードを語ってくれた。
牧野「俺はよく覚えているんだけど、たしか広規が話を持ってきた、志賀高原の丸池スキー場でのラジオ公開録音の仕事があったの。76年の初め頃かな」
志賀高原の丸池スキー場とは、件の「志賀ハイランドホテル」のことを指す。地元のラジオ局が、同ホテルのディスコ・ラウンジ「モア」でのライブ演奏を公開録音するという話が持ち上がったらしい。箱バンの一人として冬季の間はホテルに常駐していた伊藤が、わざわざ東京から伊藤を迎えにやってきた滝沢、新川、青山、牧野にこのライブ録音の話を持ちかけたようだ。
同ライブ会場の客席でくつろぐ、新川(左)と青山(右)。滝沢家提供
牧野「ライブ演奏を公開録音したんだけど、みんなで楽屋にいたときに、滝沢さんがラジオの司会者からもらった紙を見て“ウーン”っていろいろ考えてるわけ。何を考えていたのかというと、インタビューに答えて下さいって依頼があって、その質問のひとつに“どんな音楽を目指しますか?”って書いてあるの。どんな音楽って言われてもなぁって困ってて、滝沢さんが“まあ、新しい音楽、とか言うしかねぇだろ”って。そこで、俺がなんとなく“じゃあ、ニューミュージックとか言うの?”って言ったの」
新しい音楽=ニューミュージック。まだ日本で「ニューミュージック」なる音楽ジャンルが一般用語化する前の話だ。
牧野「滝沢さんも“それじゃ、なんか分かんないよ”って言ってたんだよ。で、実際に司会者からインタビューされるときに“滝沢さん、どんな音楽を目指しますか?”って聞かれたら、“そうですね、ニューミュージックですね”って言っちゃったの(笑)。そうしたら、その後でいろいろなレコードのキャッチコピーにニューミュージックという言葉が使用され始めたのよ。だから、ニューミュージックっていう言葉は、滝沢さんがラジオの公開録音で言った言葉がおそらく最初なの。楽屋で“ニューミュージックとか言うの?”って滝沢さんに言っちゃったの俺なんだよ」
ニューミュージック起源説の正否はともかく、彼らが76年の初め頃に「マジカル・シティー」というバンド名で志賀ハイランドホテルにて滝沢の曲をライブ演奏し、伊藤・青山が初めて共演、そして自分たちの音楽を「ニューミュージック」と表現したことだけは確かなようだ。
楽屋でくつろぐ牧野。 滝沢家提供
なお、前述の「ファライースト」でギターを担当していたアイク植野(植野明)のギターケースには、「MAGICAL city」というステンシルのスプレー落書きが今も残されている。
アイク植野のギターケース(一部拡大)。提供:アイク植野
マジカルのメンバーの誰かがイタズラで吹きつけたものらしいが、これが今のところ唯一、モノとして残された「マジカル・シティーというバンドが実在した証」である。
アルファへ手渡されたデモ・テープ
志賀のライブ後、青山、伊藤、新川、牧野の4人組は、滝沢のデモ・テープ録音のために東京・目黒のモウリスタジオなどでセッションを開始した。RCAのロビー和田・岡村の座組みで、滝沢と真正マジカルは「最終バス」「僕が年をとったら」などのデモ曲を追加録音したが、RCAからは滝沢とマジカルのレコード発売は実現しなかった。
しかし、これらの楽曲を収録したデモテープは、和田の手によって作曲家・村井邦彦の経営する音楽出版社「アルファ・ミュージック」へと持ち込まれる。そして、このことが滝沢とマジカルメンバーの運命を大きく変えることになった。和田は当時、村井のアルファにしょっちゅう出入りしていたという。
「うち(RCA)ではレコードを出せそうにないんだけど、アルファでどうかな?」
和田によって持ち込まれた滝沢&マジカルによるRCAテイクのデモ・テープは、アルファ社内で共有され、ある一人の社員の耳にとまる。村井の出身大学・慶應の後輩でアルファ入社2年目だった粟野敏和は、そのデモに収められていた滝沢の「最終バス」という曲の旋律に聴き惚れた。演奏は、もちろんマジカルのメンバーである。
冬のバス停で最終バスを待つ乗客と、車窓が映し出す都会の風景を情感たっぷりに描いた歌詞は、滝沢と有本が住んでいた育英寮の寮友である山口純一郎の作品だ。その美しい詞世界を艶やかに彩る、洗練されたメロディと日本人離れしたコード・プログレッション。「最終バス」に心を奪われた粟野が「滝沢に会いたい」と申し出たことで、滝沢とマジカルが、あのアルファと初めて繋がることとなった。滝沢の楽曲を聴いた粟野は「まるでギルバート・オサリバンのようじゃないか」と、欧米風のメロディ・センスを感じたという。
当時、滝沢はマジカルというバックバンドを抱えていたが、バンドとしてアルファとは契約できず、まずは滝沢単独で作家契約を結ぶことになった。しかし、粟野の先輩にあたる後藤順一のアイディアで、マジカルには後述するデモ・テープ作りのアルバイトを依頼することでアルファと繋がることになる。
偶然にも、滝沢と粟野はまったく同じ世田谷区立小学校の出身で、3歳違いの先輩・後輩。それがわかると、ディレクターとアーティストという垣根はすぐに取り払われ意気投合したという。こうして、今度は粟野が中心となって滝沢とマジカルのデモ録音をおこない、滝沢のメジャーデビューへの準備が着々と進められていった。
マジカル解散の危機と青山&伊藤「リズム合宿」
アルファでも引き続き滝沢のデモ・テープ作りを手伝うことになったマジカルだが、演奏の技術面で衝突もあった。以前、東京・目黒のモウリスタジオでRCAのデモ作りのときには、ロビー和田が青山に「叩くたびにスネアの音が違う!」と注意し、アルファに移ってからは新川が青山に「下手くそ!」「女みたいに叩いてんじゃねぇ!」などと怒鳴り、バンド解散の危機があったという。伊藤は、そんな危機的な状況下で青山から掛けられた印象的な言葉を覚えていた。
伊藤「マジカルが解散というか“お前なんかクビだ!”みたいな、そういう危うい時があってね。新川が青山に“どう思うんだよ!”って言ったら、青山が“僕は広規君と一緒にやりたい!”って。もうその言葉に心をグッと掴まれました。”よし、じゃぁ、こいつとはずっと一緒にやるぞ!”と」※BSフジ「HIT SONG MAKERS 〜栄光のJ-POP伝説〜」青山純追悼SP(2014年12月20日放送)より
そこで伊藤と青山は、スキー用キャリアをつけた三菱ギャランGTOの上にベースアンプを積み、ドラムセットは後部座席とトランクに積み込んで、あの志賀ハイランドホテルに「リズム合宿」へと出かけた。そして、ホテル内にあるスキー板の乾燥室の中でさまざまなリズムパターンを繰り返し、思う存分に楽器を鳴らし続けたという。その成果あって、青山のドラムは見違えるほど上達し、伊藤のベースと息ぴったりな“黄金リズム隊”の体を成してきたという。この伊藤・青山の「リズム合宿」こそが、のちの青山純、伊藤広規を作り上げたと言っても過言ではないだろう。
合宿から帰ってきた二人の演奏を聴いた仲間たちは口々に「上手くなったね」「すごい」とベタ褒めしてきたという。それを聞いた伊藤・青山は「そんな訳ない、これは俺たちを陥れる陰謀に違いない」と本気にしていなかったそうだが、事実この合宿を機に“黄金リズム隊”二人の演奏能力は大きく変わっていったようだ。
「デモ作りバイト」からめぐってきたチャンス
アルファと繋がったマジカルは、滝沢の他に、故・広谷順子などアルファ関連のアーティストが作曲した楽曲のデモ・テープ作りをアルバイトとして粟野から依頼され、月5万円のバイト料で受けていたという。デモの録音は当時、村井が住んでいた文京区音羽の自宅内に作られたばかりの音羽スタジオ(1階はのちの元「LDKスタジオ」、2階と3階が「音羽スタジオ」と呼ばれていた)でおこなわれた。伊藤がマジカルのデモ・テープバイトの時代を振り返る。
伊藤「新人が作った曲をデモテープにして会社に渡すというバイト。デモは、歌ってるアーティストが自分の家でギター1本で歌ってるヤツを聴きながら、こうしようって皆で意見を出し合って作っていったって感じですね。そのお陰で随分レコーディングのノウハウを知りました。月5万でやりましたね」※BSフジ「HIT SONG MAKERS 〜栄光のJ-POP伝説〜」青山純追悼SP(2014年12月20日放送)より
若き作曲家たちのオリジナル曲を、最も良い形にアレンジして演奏し、一つの曲として成立するように仕上げる。このバイト経験が、のちにスタジオミュージシャン、アレンジャーとして活躍する彼らの大きな糧となったことは言うまでもない。マジカルには、粟野から空き時間にスタジオで練習することも許可されていたという。粟野によれば、伊藤・青山コンビは音羽スタジオでよく練習に励んでいたそうだ。
粟野の主導でおこなわれた滝沢とマジカルのデモ・テープでは、のちに『レオニズ』に収録される「潮風のララバイ」原曲「浜辺にて」、軽快な純愛ポップス「セント・ポーリア」、実験的な展開と新川のソロパートが美しい「眠れない夜」などが音羽スタジオで録音されている。当時の粟野は、音羽スタジオに「入り浸り」状態でデモ作りに励んでいたといい、自ら卓に座ってエンジニアのような役割も担っていたという。
「セント・ポーリア、どうぞ」
曲の冒頭には、粟野がキューを出す声がそのまま記録されていた。
粟野「青純と広規って、最高のリズムセクションじゃないですか。だから音羽でデモを録っていても楽しくてしょうがないんですよ。まあ当たり前ですよね、のちに二人ともプロになっちゃうんだから(笑)。彼らは当時から本当に良い音を出してましたよ」
デモ・テープ作りのバイトに明け暮れる毎日を過ごしていたマジカルの4人だったが、ここで大きなチャンスがやってくる。その突然の出来事を新川が述懐する。
新川「あれは76年の初夏だったかな。ハイ・ファイ・セットのバックを担当していたガルボジンっていう名前のバンドがあって、松任谷正隆さんがキーボード、松原正樹がギター、重田真人がドラム、宮下恵補がベース。そのガルボジンが吉田拓郎のツアーに半年くらい同行するから、ハイ・ファイ・セットがその間のバックバンドを募集することになったわけ。そこで、“毎日のように音羽スタジオでデモ・テープを録音しているマジカル・シティーっていう奴らがいるから、彼らにバックをやらせよう”ということになったの。これで、僕らは初めてちゃんとしたギャラをいただく仕事ができたわけ」
マジカルは、このとき初めて「プロとして」ギャラをもらう仕事にありつくことができた。
それだけではない。彼らは、ハイ・ファイが所属していた「バード・コーポレーション」という事務所に所属する他のアーティストのバックも任されるようになった。
それはフォークシンガーの田山雅充、「あなた」のヒットで知られる小坂明子など、新進気鋭のシンガーソングライターたちだ。ハイ・ファイだけでなく彼らのコンサートツアーでもバックを担当することになり、しばらくの間はミュージシャンとして充実した毎日を送ることになる。
ちなみに「ガルボジン」とは、グレタ・ガルボとアラジンを足した造語で、ユーミンが命名したという。
新川の脱退、そしてプロへ
だが、そんな生活も長くは続かなかった。ガルボジンが拓郎のツアーから久しぶりに帰ってきたことで、ピンチヒッターのマジカルは「お払い箱」になってしまう。「これからどうしよう」と悩んでいた矢先、新川に意外な声が掛かる。
新川「ちょうど松任谷さんが由実さんと結婚する頃で、これから奥さん(ユーミン)の仕事しなきゃいけないから、新川くんだけ残ってよって言われて。松任谷さんの代わりにガルボジンに加入することになったの。それで、俺だけマジカルを脱退したんだよね」
リーダーである新川は76年いっぱいでマジカルを脱退した。その後、新川は、ハイ・ファイの「ガルボジン」をはじめユーミンのツアーにも参加するなど、アルファ系のアーティストたちのバックを支えながら、アレンジャーとしての依頼が多く舞い込むようになり、その才能をみるみる発揮していく。80年代に入ってから多くの歌謡曲のアレンジを手がけて大ヒットへと導いた活躍は、改めてここに記すまでもないだろう。
新川の後任キーボードとして声をかけられたのは、ファライーストで青山と同じくボーヤとして手伝いをしていた、「カシオペア」の最初期メンバーとしても知られる小池秀彦だった。小池はのちにビクター音楽産業へ就職し、ディレクターとしてビートたけしや岩崎宏美などを担当することになる人物だ。
小池を新メンバーに迎えた新生マジカル(青山・伊藤・牧野・小池)は、フォークグループ『五つの赤い風船』の西岡たかしのソロアルバムでバックを担当してレコーディング・デビューした。『私の耳はロバの耳』(1977)、『子供たちに贈る愛の詩』(1977)、『モス』(1978)と西岡のソロ3枚でバックをつとめた新生マジカルだが、その後も青山、伊藤にはそれぞれ別々にバックとしての依頼が殺到するようになった。
ついに、メンバーそれぞれがプロとして活躍し始めたのである。(Vol.3へ続く)
連載記事アーカイヴ
● 【Vol.1】奇跡的に発見された大量のデモテープ
● 【Vol.2】デモテープに刻まれていた名曲の数々
● 【Vol.3】達郎も秀樹も気づかなかった「真実」
(本文内、敬称略)
Special thanks : 松永良平
【イベント情報】
月刊てりとりぃ+エスパスビブリオ共同企画
『Mr.シティ・ポップ 滝沢洋一の世界』
ゲストに音楽ライターの金澤寿和さんをお迎えして送るトークショー。近年、シティ・ポップの名盤として再評価が高まりつつある唯一作『レオニズの彼方に』発売から10月5日で丸45年となった、シンガーソングライター・作曲家の滝沢洋一。今回、滝沢の自宅から奇跡的に発見された大量のテープから、名曲ばかりの未発表音源、CMソングなどを本邦初公開。西城秀樹に名曲を提供し、青山純、伊藤広規、新川博のプロデビューのキッカケを作ったニューミュージックの名付け親、Mr.シティ・ポップ 滝沢洋一の知られざる魅力に迫ります。
2023年10月7日(土)
15:00~17:00(14:30開場)
参加費=2,500円(当日精算)
※定員60名様、予約制
【予約方法】
ご予約は、メール(info@espacebiblio.jp)
または電話(Tel.03-6821-5703)にて受付
件名「10/7 シティ・ポップ参加希望」
お名前、電話番号、参加人数をお知らせ下さい。返信メールで予約完了をお知らせいたします。
【会場】
ESPACE BIBLIO(エスパス・ビブリオ)
地図→ https://www.espacebiblio.jp/?page_id=2
〒101-0062千代田区神田駿河台1-7-10YK駿河台ビルB1
● 詳しくはコチラ
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