訪米した美空ひばりの通訳も。ジャニー喜多川の正体
喜多川氏は布教のためのアメリカに移住した真言宗米国別院の僧侶である喜多川諦道氏の次男として、1931年10月23日、アメリカ・ロサンゼルスで生まれる(*1)。2年後の1933年に日本に来日。
戦時中には和歌山大空襲を経験した。幼少期の喜多川氏を社会学者の橋爪大三郎氏は、
「2歳でアメリカから日本に来たことを考えると、幼少期は英語もほとんどしゃべれず、排日移民法の差別の記憶はおろか、アメリカの記憶も全然なかったはず。
それでも、アメリカにいたことが同級生にバレればイジめられてしまうような時代ですから、苦労したんじゃないでしょうか。
終戦後の1947年には再びロサンゼルスのハイスクールに戻ったそうですが、そこでは日本人としてイジめられ、英語も必死に覚えないといけなかったでしょうから、こちらでも大変に苦労したと思います」(*2)
と分析する。
その喜多川氏は、1950年に訪米した美空ひばりや服部良一らの通訳を務めることになる。その経験が日本で芸能事務所開設を目指すきっかけにもなったという。
1952年に再び来日した喜多川氏は、駐日アメリカ合衆国大使館に陸軍犯罪捜査局の情報員(通訳の助手)として勤務。朝鮮戦争に従軍して戦災孤児に英語を教え、帰国後はアメリカ合衆国大使館の職員として働いた。
「戦後すぐの日本のショービジネスは米軍基地にありました。米軍の将校や兵士を相手にショーをすれば、一晩で当時のサラリーマンの月給2カ月分が稼げたのです。
美空ひばりさんや江利チエミさんも基地で歌っていたし、それをオーガナイズする人も多かった。
若いので初めは通訳などいいように使われていたかもしれませんが、ジャニー氏は基地に自由に出入りできたので、その時代に多くのコネクションを築いたのではないでしょうか」(橋爪氏)(*3)
なぜ警察は性加害問題を事件化できなかったのか
当時、喜多川氏が住んでいたのは、「ワシントン・ハイツ」と呼ばれた場所。現在の代々木公園一帯にあった、米軍住宅地である。
ここで、少年野球チーム「ジャニーズ少年野球団」を結成したその4人の少年(のちのジャニーズ)と62年に設立したのが、今のジャニーズ事務所だ。
とはいえ、喜多川の問題は、裁判で事実と認定され、国会でも議論された。しかし、なぜ警察も動けなかったのか。いや動けなかったのだ。
筆者が「ジャニーズ帝国崩壊」(鹿砦社)を出版した際に、ジャニーズ事務所に所属していた数名の被害者に取材している。そのうちの一人の元タレントは、ジャニー氏から受けた性被害のすべてを母親に打ち明けて、警視庁の所轄署に被害届を出しているが、受理されることはなかった。
当時、その少年は、「警察の方は『まさか、天下のジャニーズの社長がそんなことするわけがない』と相手にしてくれなかった」と語っている。もう一人の被害者少年には筆者が「所轄の警察の生活安全課に相談するように」とアドバイスしたが、警察からまったく相手にされなかったという。
1997年発売の前述の著書はジャニー氏の性加害問題だけでなく、芸能界と暴力団の交際についても触れている。そのことから出版後、知人を介して警視庁捜査4課の刑事を紹介されたことがあった。
筆者はその後まもなくから2011年までの間で、担当刑事を変えて3回に渡って芸能界と暴力団の関係をレクチャーしたことがあった。その結果、ジャニー氏の性加害について関心を持ち、事件化したいと意気込んだ刑事もいたが、それが実現することはなかった。
その理由について、芸能界の業界団体である音事協(音楽事業者協会)初代会長で芸能界とパイプがある故・中曽根康弘元首相の存在を挙げる刑事もいた。(*4)
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