簡単に言うと、学級のあれこれは、集団内の誰かの得意で埋めていけばよいという考え方である。得意を提供できるのは、不得意な人がいてくれてこそである。
今回も例に出したのが
「もし、自分のクラスの子どもが全員完璧で、自分に教えられること、できることが何もなかったら、どう感じるか」
ということである。
それは、かなり寂しい。担任である自分の存在する意義や価値を感じにくいことは間違いない。
逆にいえば、不完全な者同士だからこそ、助け合えるのである。それは、社会の構造そのものである。
例えば、私は小学校教員という仕事で糧を得ている。しかし実際の「糧」である具体物は何一つ生み出していない。昼食の給食一つとっても、安価な給食費を払っているだけである。食材の生産や獲得はもちろん、流通も調理も片付けまで全部人任せである。全く「自給自足」ではない。(もっというと、その根源を育んでくれている大自然の恵みの力には、逆立ちしても及ばない。)
しかし、社会というのはそういう分業で成り立っている。給食の食材を日々生産してくれている方々、そこに携わる方々は、当然だが小学校での担任の仕事をする時間はない。社会は、得意の相互提供による、お互い様である。
学級集団もそれを基盤とする。全員が全てを得意である必要はなく、むしろそうでない方がよい。得意な者が苦手な者をカバーし、教え支えればよい。
これは、個々に凹凸があるからこそ成立する。助けてもらった側は、当然恩義に感じるし、別の場面で自分の得意を喜んで提供したくなる。また、助けた側は、助けてもらいたい側の存在のお陰で、自分の得意を活用し磨いていくことができる。いわゆる「Win-Win」の関係である。誰も一切傷つかないし、ここには得する人しか存在しない。
さて、こういうことをしていると、副次効果が出る。自分が助けている相手、あるいは助けてくれている相手を、馬鹿にするのは難しい。お互いが自然と尊敬の念、感謝の念を抱く。「お互い様」の文字通り、お互いを敬う。言葉遣いも、自ずからそのようになっていく。









