またここには、「才能」と呼んでいいのかわからないが、個に与えられた能力についても改めて見直す必要がある。私は常々、「100点を褒めなくていい」と言い続けている。
【参考】プレジデントオンライン 「100点答案」を褒めると勉強嫌いになる 2017.6.4
100点は、結果でしかない。努力を認めること自体はいいし、「よかったね」とは思うが、特段褒めることではない。褒められるべき行為というのは、「他に利する」時の行為である。
その能力を、周囲の人々、他者に生かしているか。例えば100点を取れるその能力を使って、友達に教えてあげたり支えたりしたのか。もしそうであれば、それこそが褒め称えられる行為である。
つまり、100点が取れる能力自体は、まだ玉を磨いただけである。それを活用してこそ意義がある。玉を磨く行為自体は、いつまでも自分自身のためであり、それを眺めて自己満足しているだけなら、単なる飾り物である。しかし、それを他者のために用いることで、初めてその価値が出る。
算数が得意なら、困っている友達に教えたり一緒に悩んであげればよい。体育が得意なら、手本を見せたり一緒に運動して励ましたりしてやればよい。それは掃除でも歌でもあいさつでも、何でもいい。
周囲が明るくなる行為は、全て他に利する行為である。「一隅を照らす」という言葉もあるが、この精神こそが大切である。自分が出せるのはほんの小さな光かもしれないが、そこに救われる人が一人でもいれば、そこに価値がある。
そう考えると、100点を取ろうと勉学に励み努力することの意義が変わる。つまり、自分自身を磨いて、社会の役に立つ人間になるための行為である。そこを大いに磨くことが、結果的に社会を明るく照らすことに資する。
だから、勉学に励もうとする子どもに対しては、大いに推奨するのがよい。「あなたが磨いた才能が、将来誰かを幸せにする」ということを伝え、励ます。必ずしもそれが得意でない者も存在する社会において、共に向上しようという精神を幼い頃から教えていくことが、学級担任にできる仕事である。逆に、多少できるぐらいで他を見下すような人間に育ってしまうのが最も避けるべき事態である。
長くなったが、参観してくれた方々には、これらの話が「実感」として伝わるはずである。「百聞は一見に如かず」というが、実際に見るということは非常に大切である。
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