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【飲食起業記】大繁盛ラーメン店『町田商店』(その1) 「基礎を学んだサラリーマン時代」

『<ロードサイドのハイエナ> 井戸実のブラックメルマガ』 より一部抜粋

僕が日頃、交流のある外食業界の経営者を、このメルマガで紹介したいと思い、コーナーにしました。外食で起業するのって、凄い夢のあることだと思っています。学歴なんかいらないし。誰でも馬鹿でも逮捕歴があったってできるし。

30年前に創業したおじいちゃんの話とかを聞いても、リアリティがなくって面白くありません。今を駆け、日々苦悩と戦いながら、もがき成長していく姿にこそ、リアリティがあって楽しいのかなと。そんな若手外食経営者を見つけて来て、こちらでご紹介したいと思います。

今まで若手居酒屋経営者を紹介して来ましたが、今週から家系ラーメンの繁盛店『町田商店』等を10店舗経営し、また製麺工場を持ち、麺の製造販売も手広く行っている、株式会社町田商店の代表である田川翔社長をご紹介します。

田川社長(以下 翔)は、現在31歳。このコーナーで最初に紹介した『サブライム』花光まろのひとつ下でございます。翔に出会ったのは、丁度一年ほど前になるでしょうか。まろが開催したセミナーに参加してたらしく、そこでまろと出会った後に、僕に紹介してくれました。僕らの集まりのなかでラーメン屋の経営者は誰もおらず、珍しい存在なのが翔であります。

さらに凄いのはその収益性で、細かくはお話できないのですが、アーリーの会社が20個あっても多分、翔の方が上だと思います。そんな翔ですが、今まで他の外食企業の経営者との交流は極力控えておりました。本当に儲けている人はコソッと儲けており、翔は典型的なそのタイプの経営者なのでありました。しかし今後の翔は、もう少し羽ばたけるポテンシャルもあるので、表に出て来た方がいいよと導き、今回このメルマガで紹介させて頂くこととなりました。

出会った後に、駒沢にある『駒沢商店』を訪ねました。経営者の雰囲気は店舗の雰囲気にあらわれるのですが、この店ほど経営者の雰囲気と真逆の店は中々見たことがありませんでした。翔はどちらかと言うと控えめで、口数も少ないおとなしい感じのゲイ……じゃなくてガイなのですが、そんな翔が社長なので、むっつりオタク系のオペレーションかと思ってたところ、丸っきり逆。超体育会系のテンションで、店内は店員の絶叫が飛び交ってます。後日あのオペレーションは誰か幹部スタッフが作ったのか? と聞くと、翔自身が現場に入って作った文化だと聞いて改めて驚きました。相当な2面性なんだろうな。あいつ。

そんな翔のこれまでの軌跡をお伝えしたいと思いますので、どうぞよろしくお願い致します。

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初めまして、株式会社町田商店の田川翔と申します。2008年1月に町田駅に『横浜家系ラーメン町田商店』というお店を1号店として出店し、現在ラーメン店を中心に10店舗の飲食店とラーメン店のプロデュース業、製麺業を営んでいます。

井戸会の皆さんはバイタリティが溢れていて、エッジの効いた人が多く、大胆な発想を持っていてスター性があります。

一方、僕がどんな人間かと言うと、小心者で不器用で人見知り。井戸会の皆さんもなんでこんな奴が事業をやれているのだろう? と思った人もいるのではないかと思います。そんな僕が何故起業し、ここまでやって来ることができたのかをお伝えすることで、今後起業を考えている方達にも、突出した能力がなくても上手くやっていく方法があるのだという自信への一助になれたら幸いです。

● 起業のきっかけになった母の教え

千葉県船橋市に生まれ、神奈川県横浜市で育った幼少時代。父親はサラリーマン、母親は教師で3つ年上の兄が1人。周りから見ればいたって普通の家庭でした。父親は真面目なサラリーマン。母親は熱血的な教育ママという感じでした。勉強が嫌いで外で遊ぶのが大好きだった僕に母から言い続けられていた言葉がありました。

「いい大学に入らないと将来幸せになれないよ」

いい大学に入ればいい会社に就職できる。いい会社に入ればいいお給料をもらえて何不自由なく暮らせて幸せになれると。しかしその頃、毎日朝早々に出社し、家に帰る頃には日付が変わっている。夏休みもなければ風邪を引いても会社に行かなくちゃいけない。子供ながらにそんな父のサラリーマン生活は幸せとはほど遠いものに感じていました。

真面目で成績優秀だった兄に比べて勉強嫌いだった僕は、いい大学に入れる訳もないし、父のように一生会社に従事することも考えられない。サラリーマンにならなくても手に職を付けて自分でお店を持ったらどうだろう?「ラーメン屋で自分のお店を持って成功させる!」そう宣言したのは中学三年生の時のことでした。大学に行かなくたって成功し、幸せになれるということを証明したいという反骨精神から生まれた答えでした。

両親は、賛成も反対もしませんでした。高校に行けばそのうち現実を見るだろうと思っていたのだと思います。

僕は物心ついた頃からラーメンが大好きでした。初めてラーメンという食べ物に感動を覚えたのは、船橋市にある『ニューラーメンショップかいざん』というお店でした。いつもお客さんで溢れている大繁盛店でした。ある日、『ニューラーメンショップかいざん』が臨時休業で、近くのいつもがらがらだったラーメン屋に行ったことがありました。

「全然おいしくない」何故こんなにも味の違いがあるのだろうと疑問を感じました。

さらにラーメン屋というものを深く考えさせるきっかけのお店がありました。横浜に引っ越してきて、最寄り駅だった金沢文庫駅からすぐ近くの『大吉』というラーメン屋です。オープン当初は勢いがあって、いつ行っても混んでいるお店でした。しかしオープンから数年が経ち、大将が現場に立たない日が増えるにつれ、味は落ち、いつ行ってもがらがらのお店になってしまいました。

奥さん1人で店を切り盛りする頃には、オープン当初とはかけ離れた味になっていました。あの味がまた食べたいと足繁く通いましたが、その味が戻ることなくお店は閉店しました。

なんて分かりやすくてシンプルな現象なのだろう。美味しいお店は繁盛し、まずいお店は潰れてしまう。そんな分かりやすくてシンプルなラーメン屋に興味はさらに増すばかりでした。

とにかくまずは美味しいラーメンを作れるようにならなくては!  高校に入ったらまず自分の一番美味しいと思うラーメン屋を見つけよう。卒業したらそこで修行し、同じ味を作れるようになって自分のお店を出すんだ! そう誓い、高校生活を過ごしました。

高校は地元の進学校へ入学しましたが、まともに学校には行きませんでした。行儀の良くない連中と毎日のように夜遅くまで遊び歩き、アルバイトもせずギャンブルにのめり込んでいました。

しかし、ただ闇雲にちゃらんぽらんな生活をしているつもりはありませんでした。

「自分は高校を卒業したら修行の身だ。今しか遊べないのだから後悔のないよう遊び尽くそう」

ラーメン屋としての仕事に没頭するため、自由を奪われる覚悟を得るためには、とにかく遊びをやり切ったという充足感を得たかったのです。

そんな遊び中心の生活の中でも、自分の修業先を決めるためのラーメン探索を怠ることはありませんでした。行動範囲も増えて、いろんなラーメン屋を食べ回りました。醤油、塩、味噌などジャンルにこだわらず食べていましたが、そこでとうとう運命的なラーメン屋に出会うこととなります。

『横浜家系ラーメン壱六家』という店でした。

『横浜家系ラーメン壱六家』

横浜家系ラーメンというのは、豚骨醤油のスープに太麺。横浜のご当地ラーメンで、1974年に横浜市磯子区で創業した『吉村家』が元祖の横浜で最も勢いのあるジャンルのラーメンでした。

当時、家系御三家と言われていたのは『吉村家』『六角家』『本牧家』だったのですが、僕が惚れたのはそのどれにも属さない亜流と呼ばれていた『壱六家』でした。『壱六家』のスープはクリーミーでコクがあり、一口目から最後まで美味しく食べられる他の家系では感じられない中毒性がありました。

『壱六家』の良さはそれだけではありませんでした。お店の職人さんたちが他の家系のお店のように無愛想でいかにも職人気質で頑固者といった雰囲気ではなく、若々しくみんな勢いがあって接客は丁寧。笑顔で生き生きとして楽しそうに働いているように見えました。

「この店の味と営業力が自分でものにできれば必ず成功する!」

お店に通うごとにそれは確信に変わっていき、まだ絵空事だった計画が現実味が出てきたのはこの頃だったのだと思います。

すっかり常連になり、通いつめていたある日、店長さんから「卒業したらどうするの?」と聞かれ、僕はチャンスと思い「ここで働きたいです」そう告げると「いいじゃん、待ってるよ、まかないで毎日ラーメン食べさせてあげるよ」と言われました。あっけなく修業先が決まった瞬間でした。期待と不安が入り交じって気分が高揚していたのを覚えています。

自由奔放な高校生活を送っていたツケは当然回ってくることになりました。奇跡的に高校3年生までは進学できたのですが、このままだと卒業はできないと先生に告げられました。

「どうせラーメン屋になるのに学歴は必要ない。だったら辞めてやる」と、先生と両親に伝えると、反対をしたのは意外にも父親でした。

「一度途中で物事を投げ出すとまた同じことを繰り返す。ラーメン屋をやるのなら余計に卒業だけはきちんとしなさい。高校を卒業したらもう大人だ、好きにすればいい」

今まで諭されたことのなかった寡黙な父に言われた言葉には重みを感じました。

膨大な課題と追試の嵐で、皆と同じ卒業式には間に合わなかったのですが、3月31日に自分1人だけの卒業式を校長室であげてもらえることができました。2年間のツケを取り戻すのは大変だったけど、卒業したことは今でも本当に良かったと思っています。なんとなくですが、あのまま辞めていたらラーメン屋も途中で逃げ出していたような気がするからです。

あの時、3年間迷惑かけっぱなしの僕に涙を流して喜んでくれた先生方達本当に感謝しています。ありがとうございました。

2001年『壱六家』入社

「最長10年で独立しよう。どんなにできが悪くとも、10年かかれば技術が身につくだろう。10年あれば独立資金を貯められるだろう。10年後ならまだ20代。やり直しがきくだろう」そう期限を決めて3つの目標を立てました。

1) 同じ味が出せる技術を習得する。
2) 1000万以上貯める。
3) 独立パートナーを見つける。

そしてどんな困難があっても今日のこの気持ちを忘れず、必ず夢を実現させよう。

そう決意し『壱六家』への入社日を迎えました。

当時『壱六家』は4店舗で、決して好立地とは呼べない場所でしたが、どのお店も行列ができるラーメン店でした。

僕は、その中でも最も長い行列を作る磯子本店に配属されました。

入社初日、最初に課された仕事はお店に並んでいるお客様13名分の注文を暗記で覚えて、それを店長に間違えずに伝えることでした。メモなどは取ってはいけなくて、最初は何度も聞き直してしまい、怒鳴られることもしばしばありました。

注文を伝えるとすぐに次の13名分の注文を取りに行かなければならなかったので、合計26名分の注文を覚える必要がありました。ただでさえ覚えられない注文なのに、ゆっくり記憶しようとするとお客様を待たせてしまう。ただ覚えるだけでなく、スピードも重要でした。始めはどれだけやっても覚えられるようにならないのではないかと思っていましたが、不思議と数週間である程度覚えられるようになっていきました。

2ヵ月ほどで仕込みや注文をこなせるようになると、最大の難関の麺上げの練習をやらせてもらえることになりました。当時本店は、小分けに麺を茹でられるテボ式のタイプではなく、ひとつの寸胴に13名分の麺をまとめて茹でて一杯ずつ小分けに麺を茹で上げる平ザルを使った非常に高い技術を要するものでした。

見た目以上に難しいこの作業は、いきなりお客様のラーメンをあげられる訳もないので、寸胴に水を張り、そこにタオルを浮かべそれを麺に見立てて練習するところからのスタートでした。

基礎的な動きを教わり、とにかく一日中その動きを反復させました。親指と人差し指のまたが避けて麺ザルが血で染まってゆき、痛くて力が入らず正しい動きができなくなっていきました。

お客様が並んでいるお店の前での練習だったため、恥ずかしい気持ちでいっぱいでしたが、常連さんに「早く習得して俺のラーメンを作ってくれよ!」と言われたのにとても励まされたのを覚えています。

10日間ほどのタオル練習を経て、ようやくお客様の麺をあげるチャンスをもらえたのですが、最初は全くうまくいきませんでした。上げるスピードが遅いと麺はどんどん茹で上がってしまい提供できなくなる。そして13名分の麺をまとめて揚げると。1名様あたり3、4本麺が少なくあげてしまうだけで、最後には1玉ほども余ってしまうことになり、いかに精密でなくてはならないということに気づかされました。

そして失敗してお客様に提供することができなかったり、麺を余らせてしまったらその麺を全て自分で食べなくてはいけないというルールがあり、多い日は8玉食べることもありました。

一見いじめにも見える風習のようでしたが、いかなる時も食材を粗末にしてはいけないという『壱六家』の食べ物を大切にする想いが込められた文化を学びました。

怒られてばかりの毎日でしたが、仕事が大変なほど夢に向かって確実に近づいているような気がして、毎日がとても充実していました。

3ヵ月ほど過ぎた頃初めての後輩が入社してきました。自分より7つ年上の26歳の飲食経験者。のりあきという名前だったので、僕はあきちゃんと呼ぶことにしました。上下関係が厳しく、超縦社会の会社だったため、先輩から「年上だからってなめられんじゃないぞ」と言われ、その言葉を勘違いして、あきちゃんに対して初日からタメ口で「俺、翔っていうからよろしく! わからないことがあったら何でも聞いてよ!」みたいなノリでかなり生意気な口をきいていました。

3ヵ月の中、僕も急スピードで成長してはいましたが、6年飲食経験のあるあきちゃんは、みるみる仕事を覚え、1週間で完全に追いつかれてしまいました。そして「まだその仕事できないの?」とか「包丁使うの遅いよね」などと気づくと完全になめられていました。

そして決定的な事件が起きました。店長と僕とあきちゃんで午前中仕込みをしている時、店長が「ちょっと銀行に行ってくるからその間のりあき、店よろしく頼むな!」と言ったのです。先輩の僕に頼まず、後輩のあきちゃんに頼んだということはもう完全に仕事において追い抜かれてしまったんだ、と解釈し、「このままではいけない、もっと自分を成長ステージに行かなくては!」と環境を変える決意をしたのです。

たつさんとの出会い

壱六家のシフトは完全二交代制をとっていて、早番だった僕は少しでも早く成長したいという思いから、過酷と言われており、誰もが敬遠していた遅番のシフトを志願しました。

遅番に行くと、ちょうど本店の店長に就任したばかりのたつさんという人の下で働くことになりました。たつさんの第一印象はとても頭が良く、いい意味でラーメン屋っぽくなくて、何か毛並みの違う人だなと感じました。あと初日に執拗にケツを揉まれたので、そっち系の人なのかなと思いました。それまでの先輩方は、作業的な仕事はプロでしたが、職人気質すぎて、後輩に仕事を教える際に言葉が暴力的になったり、手を出したりしてしまう人が多い中、たつさんは常に冷静で、理論的に分かりやすく仕事を教えてくれました。仕事をチームで盛り上げるには、まず人間関係をしっかり築くことが大事なのだということも学ばせてもらいました。

たつさんはまずあきちゃんに敬語を使ってなかった僕に対して、「ふざけるな、お前の方が先輩かもしれないが人生の先輩に対してその口の聞き方はなんだ。それは恥ずかしいことだから絶対やめろ!」と叱責されました。その時、ただのエゴで先輩風を吹かせたかった自分に気づき、情けないと思いました。あきちゃんになめられていたのは、自分があきちゃんに対して先輩として敬意を払ってなかったからだったのです。

ラーメン屋としてのスキルやテクニックだけでなく、社会人として、人として大事なものを多く学びました。

僕は会社や先輩の批判を酒の肴にしてしまう人たちが多い中、常に会社がもっと良くなるためには、成長するためには何をすればよいのか? という思考をし、行動しているたつさんに対して、なぜそこまで会社に尽くせるのですか? という質問をしました。

「俺は前の会社でものすごく利益を出したのに給料が全く変わらなかったから辞めたんだ。ここの会社の社長は『俺は成果を出したら出した分だけ給料を払う』と言ってくれた。だから俺は3年間は寝ずに働く」

“寝ずに働く”がたつさんの口癖でした。実際夜から朝まで現場。昼は会社に今後必要となる仕組みづくりをする時間に費やし、本当に寝る間を惜しんで働いていました。母子家庭でとても貧しい幼少期を過ごしたたつさんは、お金に対する執着心が人一倍強かったのではないかと思います。

そこまで能力と意識が高いのにもかかわらず、一切独立願望の無いたつさんに対して僕は、「この人をいつかビジネスパートナーにしたい」と強く思い、後にそれは実現することになるのでした。

甘くなかったスープ作り

昔ながらの職人気質の社風の『壱六家』でのスープ作りは神聖なものであって、1年間は一切スープに触らせてもらうことはできませんでした。しかし味覚を磨くための味見は許されていたため、1年間毎日数十回の味見は怠ることありませんでした。

遅番勤務になって半年ほどたった頃、ようやくスープに触れるようになることを許されました。

最初に驚いたのは、一般的にラーメンのスープは何十種類の材料を使って作るものだと思っていたのに対して、使用していた材料は豚頭と背脂のみ。使う道具はスープをかき混ぜるためのもっくんと呼ばれているただの木の棒に、てっくんと呼ばれているただの鉄の棒だけでした。

シンプルなだけにその奥の深さと難しさは想像を超えており、マニュアルは一切なく、スープの味作りは全て技術とセンスのみで決まるものでした。

さらにとんこつラーメンは、一般的に仕込んだスープをガラや材料を全て抜き、いったん寸胴などに取り分けてでき上がったものを温めて提供するのですが、家系ラーメンはガラを入れてスープを焚き続け、そのスープをお客様に提供し続けながら、そのスープを一定の量と味を保ち続けるというとても高い技術を要するものだったのです。

僕はそのスープ作りに対して、職人魂に火が付き、この技術を昇華させ誰にも負けない、誰にも作れない自分だけの最高のスープを作れるようになろうと心に決めました。

スープ作りとは本当に面白いもので、人それぞれ作る人によって同じものを使っているのに味が全然違いました。ある人は美味しく、ある人はまずいということではなく、どちらも美味しいけど味の種類が違うといった感じでした。まずは色々な人から学ぼうと思い、当時スープを作ることのできた10人くらい全ての人の技術を見せてもらい、学ばせてもらいました。

それから2年ほど経ち、ようやく自分の納得できるスープが作れるようになり、たつさんや社長に認められるようになった頃、とうとう本店の店長になれるチャンスをもらえることになったのです。

店長のバトン

たつさんとの遅番シフトの仕事が3年ほど経った頃「俺は新しいお店を立ち上げる、俺の店長を引き継いでくれないか?」と聞かれ、僕は二つ返事で「やらせて下さい」と答えました。

長い間ずっと同じフィールドで仕事をしていて、正直自分の仕事をちゃんと評価してもらえているのか不安を感じていた中、ようやく1人のラーメン職人として認められたのだと喜びを感じた瞬間でした。

そしてひとつの目標としていた店長になることと、ある程度独立資金も溜まっていたことから、付き合っていた彼女に結婚を申し込みました。普通のサラリーマンとして生きるつもりはない。安定とはほど遠く、将来経営者の嫁として苦労する覚悟を持って結婚を受けてくれた彼女の存在が、独立して成功したいという思いをいっそう強くさせました。そして一生彼女を幸せにしようと心に誓いました。22歳の時のことでした。

店長になって益々気合いが入り楽しみに現場に向かいましたが、そこに待っていたのは期待に反する物でした。常連さんからは皆口を揃えて、「店長どこ言っちゃったの?」とか「あれ、何か味変わった?」などの不安の声や苦言ばかりでした。

たつさんと自分は何が違うのだろう?

今までと同じ、いや今まで以上のラーメンやサービスを提供しているはずなのに、それとは裏腹のお客様から評価に頭を悩ませる日々が続きました。たつさんがいなくなったことで、今まで厨房から見えていた景色とは全く違う物になってしまったのです。

「たつさんが作り上げたお店の受け取ったバトンはこんなに重い物なのか」

すっかり自信喪失してしまった僕は、スープが悪かったりいい営業ができなかったりすると、後輩に当たったりするようになっていました。

ある日、元気のない後輩に「お前やる気がないなら明日から来なくていいよ!」と叱責すると、次の日から本当に来なくなってしまいました。もっと志を持って働いてほしいという想いを伝えたかったのですが、自分の理想の営業ができていないことで、自信や余裕がなかった僕が伝えた言葉には愛情がなかったのではないかと思います。

その後も社長からの評価やネットの書き込みを気にして仕事をしている自分に嫌気がさし、今一度、人からどう見られているかだけではなく、飲食人としてのあるべき姿を見つめ直そうと思いました。

シンプルに考えよう。最高に美味しいラーメンを最高に心のこもった元気な営業で来ていただける全てのお客様に満足していただこう。

そして一緒に働く仲間が自分と一緒に働くことが楽しい、そう思ってもらえるような最高のお店を作ろう。

それからは一緒に働くスタッフとのコミュニケーションを欠かしませんでした。仕事終わりに飲みに連れて行き、現場では中々伝えられない自分の作りたい理想のお店を語ったり、皆と一緒にいることで今のお店を作れていることの感謝を伝えたりしました。

年齢が若かったため少しでも貫禄を出そうと筋トレをして、腕も1.5倍位太くしたりもしました。一生辞めないと豪語していたタバコも辞めました。

努力のかいあって、その後2年間、売り上げが昨年対比も割らず、離職者も1人も出さなくて、お客様から指示される理想のお店を作りあげることができました。

独立のきっかけ

店長として年数を重ねるも、いっこうに独立の機会に出会うことはありませんでした。仕事も順調で『壱六家』にある種の居心地のよさを感じていたことに逆に不安を感じることもしばしばありました。

入社して5年間、入社当時みんな将来独立すると意気込んでいた先輩達も誰1人として独立を果たした人はいませんでした。

いつになったら独立するきっかけがくるのだろう?

そんな頃、嫁が待望の第一子を身ごもりました。そのとき一瞬、自分の中で、もしかしたら独立ではなく、このまま『壱六家』にいた方が家族は幸せなんじゃいか? という思いが頭をよぎりました。

嫁に「もしも、独立を辞めてこの会社でやっていくと言ったらどうする?」と聞くと、「そんなこと絶対辞めて欲しい! 昔からの夢だったでしょう? 私は全ての覚悟はできているから必ず独立して欲しい」と言われ、家族のためと弱気な発言をした自分に、嫁がかけてくれた力強い言葉で独立する決意が固まった瞬間でした。

独立する道へのきっかけなんてそう都合良くやってくる物じゃない。みんな不安の中、無理矢理に道を切り開いているのだろう。

次の日、社長とたつさんに独立のために退職したいという思いを告げました。当時店長は退職する際には1年前に申告しなくてはいけないという約束があったため、1年後に退職すると伝えました。

社長は意外にもすんなりOKをもらいましたが、たつさんからは反対されました。「俺はこの会社をもっともっと大きくする。ここに残ってお前の力を貸してくれないか?」と言われましたが、「僕は絶対に独立します。今の仕事はやりがいもありますが、独立をしなかったら必ず後悔するのでやらせて下さい」と伝えると、「お前は繁盛店しか知らないから、分からないだろうけどそんなに甘くないぞ。売れないお店を繁盛店にするのは本当に大変なんだ。始めから繁盛するなんてことはないからな」たつさんが言うことを理解できなかった訳ではなかったけれど、当時8店舗ほどになった『壱六家』はどの店舗も繁盛店であって、その時の自分は“売れないお店”というのが全く想像できませんでした。

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『<ロードサイドのハイエナ> 井戸実のブラックメルマガ』 より一部抜粋
著者/井戸実
神奈川県川崎市出身。工業高校を卒業後、寿司職人の修業を経て、数社の会社を渡り歩く。2006年7月にステーキハンバーグ&サラダバーけんを開業し同年9月に㈱エムグラントフードサービスを設立。

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