突然とやってくるそのシーンは、映画の中では何気ない日常という位置づけだろうか。パーフェクト・デイズの中には、おそらく障がいのある人や外国人など、「普通」と呼ばれる人たちとは違う範囲の人たちがいて、そこと触れ合う瞬間が訪れる。日常の現実がシーンとつながる。
映画の後半でその若い清掃員は平山への電話1本で「おれ、仕事やめます」と突然の退職をし、仕事の穴を埋めないまま離脱してしまう。その若者の「耳」に会おうとトイレを訪れたダウン症の男性は、そこに幼馴染がいないことを見て確認し、寂しそうな表情でその場を後にするのを見たとき、胸が締め付けられる。
そこにいる、という安心感が絶望に変わるとき、そこに去来する寂しさはとても深いのだろう。だからこそ、何らかのコミュニケーションは必要だが、そこがうまくいかないのが世の中でもある。それもパーフェクト・デイズの一部だろうか。
社会に必要な公衆トイレを清掃する、という行為を舞台にしながら、ここで表現された日常に私は共生社会に必要な、知らない人への気配りや愛情を見る。同時に知らない人だから排他的になる現実もある。
平山は毎朝、日の出前の薄暗い都会の空を見上げ、出発する。昼食は買ってきたサンドイッチを神社の参道に位置する樹木に囲まれたベンチで食し、ふと空を見上げて木々の木漏れ日に目を細める。その木漏れ日の美しさの一瞬をフィルムカメラで取ろうとするが、なかなか気に入った写真となるのは難しいようである。
共生社会の中で人と人がふれあい、「気に入った」形になるのは難しいかもしれないが、その一瞬を慈しもうとした時、その連続が日々として形作っていくのかもしれない。
「消費文化に追われることなく、大きな木の根元にある小さな芽や木漏れ日のような、他の人々が見逃してしまう些細なものに目を留めることができる」(ヴェンダース監督)。それは共生社会の出発点のように思う。
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