今期ドラマナンバーワンの呼び声も高く、いわゆる「業界視聴率」トップとも言われる『不適切にもほどがある!』(TBS系)。昭和と令和のギャップを脚本の宮藤官九郎が鮮やかに描く本作を、「テレビの中の人」はどう見ているのでしょうか。メルマガ『テレビ解体新書』の著者で、『しくじり先生』など数多くの番組を手掛ける宮本大輔さんが今回、『不適切にもほどがある!』をバラエティ制者作の立場から考察。さらに、この作品の放送を実現させたTBSの「覚悟」、テレビ制作現場における「俺が責任を取る!」と言えるリーダーの重要性について解説しています。
登場人物が「改心」しないからこそ『不適切にもほどがある!』は面白い
1話を見た時点で衝撃を受けました。時代を象徴する凄いドラマが生まれたと…。
今、日本全体を覆っている混沌とした空気、誰もが感じている将来への不安。
コンプライアンスが叫ばれテレビ局が逃げ腰になっている中、ジェンダー・多様性・働き方改革・SNS炎上などなど、あらゆる場面で起こっている社会問題をド正面から当ドラマは描いている。脚本の宮藤官九郎さんをはじめ、超優秀なスタッフと出演者の皆さんに脱帽です。
阿部サダヲさん演じる主人公:小川市郎が昭和から令和にタイムスリップ。市郎は昭和では一般的とされていた不適切な発言・言動を令和の時代に起こしていく。
「昭和の正義」と「令和の正義」の摩擦をスキのない笑いどころを編み込みながら描いているわけですが、核心をミュージカルで見せたり、あらゆるクドカン作品との関係がちりばめられていたり、スゴイと思うことは数多くあるのだけど、中でも個人的に特にスゴイと思った点は、劇中で決して「昭和が良かった」とか「令和が正しい」とかを言わない・言わせていないこと。
そして、
昭和の一面を知った(感じた)令和時代の登場人物も、
令和の一面を知った(感じた)昭和時代の登場人物も、
各場面で感銘を受けるシーンはあっても「改心」するまでには至っていない。
ということです。
通常よくあるのは、登場人物が何らかのイベントをキッカケに心境に変化が生まれて結果改心したりする、いわゆる感情の起伏を描くことで視聴者は感情移入し感動を覚えるわけですが、このドラマは「昭和」「令和」という2極を対比した際、このやりがちな演出をぶっこ抜いている。
と同時に、それだけテーマが大きいということです(註:この文を書いているのは第5話段階)。
バラエティ畑24年のテレビマンとして「第2話」に感じたこと
とはいえ今回、ボクはドラマ畑ではなくバラエティ畑の人間なので、偉そうにあーだこーだ言える立場にありません。なので、バラエティ現場を知っている人間として限定的に考えを記したいと思います。
第2話で仲里依紗さん演じる、子育てしながらテレビの制作現場で働く女性「犬島渚」の奮闘ぶりが描かれています。テーマは「働き方改革」。
後輩に仕事を教えようと思うのだけど、シフト制で別の後輩とチェンジして後輩は帰ってしまう。
またイチから教えないといけない。このくりかえし。
そして結果、教えていた後輩が2人とも気づいたら辞めちゃってる。テレビの世界ではあるあるです。
こんな状況が続くと、犬島渚のように「全部自分でやっちゃう方が早い」となり、自ら自分の首を絞める形になる。
でも、犬島渚には自らの番組をもちたいという夢があるので、それを支えに頑張るが、上司はそんなことは気にかけてくれない。
もちろん、テレビ制作の現場は昭和時代のブラック職場の代名詞的な存在なので、働き方の構造は考えなおさないといけないのは間違いない。
では、なぜ我々昭和世代の人間は、ブラックな職場環境に耐えられたのか?ということです。
この記事の著者・宮本大輔さんのメルマガ
昭和のテレビマンがブラック環境に耐えられた2つの理由
この問題をテレビ制作業界に従事して24年目のボク個人が感想を述べる際、まずその前にテレビ制作の現場の構造を説明しないといけません。
ざっと以下のような役割があります。
- 総合演出・ディレクター(D)・プロデューサー(P)・アシスタントプロデューサー(AP)・アシスタントディレクター(AD)
テレビ番組のエンドロールでよく見ますよね。
エンドロールでは役割ごとにゴチャゴチャにひとくくりにされていますが、実は役割関係なく3種類の人間が存在します。この構造を理解するのが「働き方改革」の第一歩かなと。
- テレビ局の局員
- 下請け制作会社の人間
- フリーランス
この3種類。
上記の説明をふまえて、なぜ昔(昭和)はブラック環境に耐えられたのか?
理由は2つあって、まずは「お金」。
ボクの場合で言うと、下請け制作会社の時は確か月収13万円とかだったかな。
で、ずっと月収変わらず3年で、あるゴールデン番組のチーフADになった。ADとAPで役割が違うけど、いわゆる犬島渚的な立場。
その時にフリーランスになった。すると月収が3~4倍になった。
で、「テレビの世界は凄いな」と思うと同時に、ボクは考えるわけです。
「このまま頑張ってDになったら番組を掛け持ちができる。そうなると、月収が番組の本数分、倍々ゲームになる」と。
そりゃあ若いですし、睡眠時間を度外視して働こうと思いますよね。要は潤沢なテレビ制作の予算があったということです。
悪い言い方をすると、昔のテレビ局は「札束で顔をはたきながら下請けに働かせられる」パワープレーができていた、が今はできない。
とはいえ、昨今テレビが弱ってきていると言いますが、そこまで弱っていないのではとボクは思っていて、現に映像を作る職種でいうと、テレビの予算はまだまだ大きな方で、問題の根幹は話が大きくなっちゃいますが、もっと大枠の構造問題だと思っています。
- 番組を作ることが決まる→スポンサーが多額の広告料を出す→大手の広告代理店が1/3とる→テレビ局が1/3とる→1/3が制作費として我々の元におりてくる
その中から出演者へのギャラを払い、残りが実質使える制作費&人件費。
で、作った作品をスポンサーに見せると、こう言われる。
「あれだけ多額の費用を払ったのに、こんなものしか作れませんかね?」
と…。あくまでボク個人のイメージですけど。
もう1つは「夢」です。
上記で話した、「頑張れば大金が得られる」と思えたのも、当時ボクのテレビの世界のフリーランス界隈には、テレビ局員より大金を稼いで(当時かっこいいと思われた)派手な遊びをしている先輩がゴロゴロいました。今はそれがない。
「ない」と言ったらダメだな。昔よりかなり狭き状況にある(夢が持ちづらい)。
そして、犬島渚のように「自分の番組をいつかは持ちたい」という夢もありました。
しかし、「自分の番組」となるとDの上である「総合演出」や「プロデュース」という立場になるということを意味するのですが、現状、地上波のテレビ番組においてフリーランスや制作会社の立場で総合演出をはれる人は、本当に少なくなったように思います(昔はもっとゴロゴロいた)。
もちろん予算削減が叫ばれる中、テレビ局としては局外の人間より社員であるテレビ局員に、その役をやらせようとするのは当然。
この記事の著者・宮本大輔さんのメルマガ
伊集院光の話を聞いて考えた「事前の楽屋挨拶」の意味
で、ここまで来ると「じゃあテレビ局員になればいいじゃん!」と思うかもだけど、テレビ局員にはテレビ局内の局員同士の争いがあるわけで。
誰しも、テレビ局員になったとしても花形のバラエティ制作やドラマ制作に従事できるわけではない。
夢を持ってテレビ局に入ったが、不本意な部署に在籍させられている人はゴロゴロいます。
今の時代、その花形の制作部にいるテレビ局員でさえフリーに転職する時代ですから、当然と言えば当然なのかもしれません。
結論としては「テレビにおける働き方改革」は、抜本的な構造から見直さないといけないのだと思っています。
で、もう一つ触れておきたいことがあって、芸人さん役で蛙亭の中野さんが収録前に先輩の楽屋挨拶をおこなうシーン。
経験ある犬島渚は中野さんに助言します。
「片方の先輩は楽屋挨拶NG、もう片方の先輩は必ず挨拶するように」
と。いわゆる伝統あるテレビ業界のしきたりみたいなことです。
ボクの経験肌感で「事前の楽屋挨拶」というしきたりは、くりぃむしちゅーのお二人や有吉弘行さんがMCをやるようになった時代ぐらいから「やらなくてよいもの」になった印象。
でも、いまだに事前の楽屋挨拶は存在しています。
先輩が「楽屋挨拶はナシ」と言っていても、楽屋挨拶に行くタレントさんはいるし、行かせるマネジャーさんはいます。
ボク個人としては「収録前の楽屋挨拶はなくて良いもの」であるし、世間の感想もそっちが大半でしょう。
ですが「ではなぜ、いまだに楽屋挨拶へ行くのか?」ということを考えてみることは大事なのではないかと思います。
この考えに至ったのは、ある番組打ち合わせで伊集院光さんのお話を聞いてから、その番組のテーマは「伝統ある世界で新たな試みをしたときに起こる摩擦」みたいなことで、伊集院さん自身、落語界からラジオ・テレビと活躍の場を広げた経歴を持っている。
そんな伝統ある世界で揉まれた伊集院さんが言われたことは、
「今まで伝統ある世界でやっていなかったことには、やっていなかった理由も存在する」
という事です。
令和の時代では煙たがられる「伝統のしきたり」みたいなことにも、必ず裏には明確な理由や意味が存在するということです。
なので、劇中シーン「収録前の楽屋挨拶」、なぜしきたりとして残っているのか?それを考えてみることが大事。
簡潔にいうと、「事前に顔を合わせておいた方が、本番のコミュニケーションが円滑に運べる場合が多い」から。
「若手からしたらMCの方に名前と顔を覚えてもらった方が話をふられやすい」から、ということが言えると思います。
なので、本番で大御所の方に強くいける芸人さんとか、毒舌が売りで失礼なイメージが強い人であればあるほど、実は楽屋挨拶に必ず行っていたりする。
さらには、楽屋挨拶で事前に軽く毒舌を吐いてフリ(毒舌への免疫)まで作っていく人もいます。
要は、おもしろいものを撮るための本番までのフィールドワークです。
そんな、楽屋で行われている攻防を知りながら、その後の本番でおもしろくなった状況に出くわすと、安直に「今の時代は楽屋挨拶ナシ」を全体ルールにしてしまうのは間違っているのでは?と思ったりするわけです。
この記事の著者・宮本大輔さんのメルマガ
「俺が責任とる!」と言える人が番組にいるかどうか
今回は「昭和」&「令和」問題が多発するテレビ制作現場を描いたシーンから、2つほど見解を話させてもらいました。
そして最後になりますが、最も賞賛しないといけないのは、今の時代に『不適切にもほどがある!』という作品を放送した当番組自体の存在なのではないでしょうか?
このドラマの企画ないし本ができた時、果たして他のテレビ局で実現したのか?と思います。
TBSが実現できた理由を一言であらわすと「覚悟」ではないかと思います。
脚本の宮藤さんは当然、企画書を通したプロデューサーもTBSの編成も「相当な覚悟」を持って、実現させていると推測します。
バラエティの世界でも円滑に番組制作が行えて結果を出している番組には、必ず覚悟をもっている人が存在します。サル山を従えるボス猿のような存在。逆に問題が表面化する番組には覚悟がない。
例えば、放送すると炎上する可能性のあるシーンがある。でも放送するべき正義もある。
そういう場面に遭遇した際、「うるせぇ、俺が責任とる!」と言える人が番組にいるのかどうか?
覚悟がない人がリーダー的存在にいると「責任逃れ」がはじまるので、「リーダーの多頭化」が始まります。誰の意見を聞けば良いかわからなくなる。
そして、結果として中途半端な状態になり、その分、下にいる人間の作業は倍々に増えていきチームは疲弊する。
責任をとる人がフラッグを振って最も汗をかく、するとその人への人望も集まりますし、チームが向うべき方向が1つになって一丸となる。
チーム全体の雰囲気もよくなるし作品への愛情度も上がる。
すると、結果としてコンプライアンスに対しての意識も高くなるのではないでしょうか?
令和である今の時代に起こる様々な問題は、ルールやシステムではなく「当事者の覚悟」で、ある程度説明できるように思ったりします。
この記事の著者・宮本大輔さんのメルマガ
image by: 金曜ドラマ『不適切にもほどがある!』|TBSテレビ公式サイト