平将門にシンパシーか。なぜ徳川家康は神田明神を江戸の総鎮守に定め、菅原道真を祀る湯島天神を篤く崇敬したか

 

3.将門の結界

神田明神は最初、将門の首塚がある場所にあった。それを江戸城の鬼門の方角に当たる現在地に移転した。江戸の鬼門を守るのは寛永寺とされているが、江戸の守護神は天海個人と江戸総鎮守の神田明神だったと考えている。

江戸幕府が開かれたときに、江戸には北斗七星の形をした「将門の結界」が張られた。考案者は寛永寺開祖の天海とされる。

江戸の北斗七社は、鎧神社、水稲荷神社、筑土八幡神社、神田明神、将門の首塚、兜神社、鳥越神社。その中心は江戸の鬼門守護の神田明神である。

家康は将門に親近感を持っていたと思う。将門は武士の祖であり、関東八国を最初に占領した武将であり、天皇と対峙し「新皇」を名乗った人でもある。

そして、将門は京都の公家が元も恐れる日本三大怨霊の一人でもある。三大怨霊とは、平将門、崇徳天皇、菅原道真の三人。ちなみに家康は、菅原道真を祀る湯島天神を篤く崇敬し、豊島郡湯島郷に朱印地を寄進したという。また、明治維新前は寛永寺が別当を兼ねていたという。

崇徳天皇を祀る神社には、虎ノ門金毘羅宮がある。江戸初期の万治3(1660)年、丸亀藩(香川県丸亀市周辺)の藩主・京極高和が藩内の金刀比羅宮を三田にあった江戸上屋敷に勧請して創建とあるので、裏鬼門守護の意味もあったのかもしれない。

4.国家神道とGHQ

江戸時代が終わり、明治になって江戸は東京となり、天皇も京都から東京へと転居した。欧米列強に対峙するために、一神教的性格を持つ国家神道が提唱され、廃仏毀釈が起きた。神田明神は神田神社と改称された。

明治天皇が神田明神を参拝するにあたり逆賊の平将門を祭神から外せということになり、摂社「将門神社」に遷座された。その代わりに少彦名命を迎えることになる。その後、1984年になって平将門の合祀と神田明神という呼称が復活する。信仰の自由は憲法に保障されているが、逆賊を許容するにはそれだけの時間が必要だったのだろう。

また、戦後のGHQの指導により、国家神道だけでなく神道全体への政府支援が禁止された。神道に関する教育も禁止され、日本人は無宗教という刷り込みが行われた。

現代人の我々は、皇室や天皇に対する悪い印象はない。違和感なく天皇中心の歴史観を受け入れているが、武家政権や武士の立場に立ってみると、まったく違う風景が見えてくる。

編集後記「締めの都々逸」

「武士と公家とが 対立しても 庶民にとっては 知らぬこと」

皆さん、家康の立場で考えたことはありますか。自分が家康でなぜ江戸に幕府を開いたのか。なぜ、大きな神社やお寺は関西に多いのか。なぜ、江戸時代に七福神信仰が生まれたのか、これまで考えもしなかったことが次々と頭に浮かんできました。

「知らないうちに、結構洗脳されているんだなあ」と思ったことも、今回の収穫でした。(坂口昌章)

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