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平将門にシンパシーか。なぜ徳川家康は神田明神を江戸の総鎮守に定め、菅原道真を祀る湯島天神を篤く崇敬したか

1603年、徳川家康によって開かれた江戸幕府。以来、明治維新を経て東京と名を変えたものの、400年以上に渡り日本の中心地として繁栄を続けています。もともと東国の寒村だったとも伝わる江戸。なぜ家康はそんな土地での開府を選択したのでしょうか。今回のメルマガ『j-fashion journal』ではファッションビジネスコンサルタントの坂口昌章さんが、その理由を考察。さらに神田明神を江戸の総鎮守に定めた訳を推察しています。
※本記事のタイトルはMAG2NEWS編集部によるものです/メルマガ原題:家康と神田明神

家康と神田明神

1.家康が江戸を選んだ理由

家康はどんな気持ちで江戸の町つくりを行ったのか。なぜ、神田明神を江戸の総鎮守に定めたのか。これまで一度も考えなかったことが気になっている。

家康は、大坂夏の陣で西軍に勝利し、天下統一を成し遂げた。歴史の教科書には、その後江戸を本拠に幕府を創立したとあるが、なぜ江戸だったのか。

平安以降の歴代の天皇は京都におり、室町幕府も京都だった。織田信長は安土城、豊臣秀吉は大阪城を本拠にしていた。常に日本の中心は関西にあったのだ。それなのに、家康は鎌倉よりさらに東の江戸を選んだ。

その理由の一つは、天皇、公家から距離を置くこと。できれば、完全に影響力のない土地が望ましい。過去の武家政権は、天皇や公家の工作によって崩壊した例が多いからだ。

第二に、既得権がない土地。昔からの豪族や力のある寺院がない土地。思うとおりに開発ができる土地が望ましい。

第三に、西軍の生き残りや公家勢力など、西の討幕勢力が現れた場合、防衛を固められる土地だ。江戸であれば、家康の息がかかる静岡や小田原を通らなければならない。

第四に、食料の調達が容易であること。農産物や海産物が豊富にあり、多くの人口が養えることである。

第五に、広大な面積が確保できること。以上のあらゆる意味で江戸は申し分がない。

2.江戸ニュータウン開発プロジェクト

家康は、新しい都を一から作りたかったのではないか。ニュータウン開発と首都移転を同時に行うような巨大プロジェクトである。

天下統一を成し遂げ、戦がなくなると、武将は報奨を得られなくなる。武士は何を目指して生きていけばいいのか。

その答えの一つが巨大なインフラ整備プロジェクトだったのではないか。各大名にプロジェクトを割り振ることにより、軍資金を吐き出させれば、謀反の芽を摘むことにもなる。

当時の江戸は海が深く入り込み、常に河川が氾濫する湿地帯だった。新たに都市を作るには治水工事が不可欠だった。

まず、東京湾に流れていた利根川を銚子に流した。そのうえで、江戸市中を縦横に水路を整備し、埋め立てや干拓を行った。

治水工事の成功には、龍神や蛇神の加護が必要である。そこで、出雲系の大己貴命(おおなむちのみこと)を祀ったのではないか。武家政権と対立してきた公家勢力は基本的に伊勢系の神を祀っている。江戸の神社に出雲系の祭神が多いのは偶然ではない。

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3.将門の結界

神田明神は最初、将門の首塚がある場所にあった。それを江戸城の鬼門の方角に当たる現在地に移転した。江戸の鬼門を守るのは寛永寺とされているが、江戸の守護神は天海個人と江戸総鎮守の神田明神だったと考えている。

江戸幕府が開かれたときに、江戸には北斗七星の形をした「将門の結界」が張られた。考案者は寛永寺開祖の天海とされる。

江戸の北斗七社は、鎧神社、水稲荷神社、筑土八幡神社、神田明神、将門の首塚、兜神社、鳥越神社。その中心は江戸の鬼門守護の神田明神である。

家康は将門に親近感を持っていたと思う。将門は武士の祖であり、関東八国を最初に占領した武将であり、天皇と対峙し「新皇」を名乗った人でもある。

そして、将門は京都の公家が元も恐れる日本三大怨霊の一人でもある。三大怨霊とは、平将門、崇徳天皇、菅原道真の三人。ちなみに家康は、菅原道真を祀る湯島天神を篤く崇敬し、豊島郡湯島郷に朱印地を寄進したという。また、明治維新前は寛永寺が別当を兼ねていたという。

崇徳天皇を祀る神社には、虎ノ門金毘羅宮がある。江戸初期の万治3(1660)年、丸亀藩(香川県丸亀市周辺)の藩主・京極高和が藩内の金刀比羅宮を三田にあった江戸上屋敷に勧請して創建とあるので、裏鬼門守護の意味もあったのかもしれない。

4.国家神道とGHQ

江戸時代が終わり、明治になって江戸は東京となり、天皇も京都から東京へと転居した。欧米列強に対峙するために、一神教的性格を持つ国家神道が提唱され、廃仏毀釈が起きた。神田明神は神田神社と改称された。

明治天皇が神田明神を参拝するにあたり逆賊の平将門を祭神から外せということになり、摂社「将門神社」に遷座された。その代わりに少彦名命を迎えることになる。その後、1984年になって平将門の合祀と神田明神という呼称が復活する。信仰の自由は憲法に保障されているが、逆賊を許容するにはそれだけの時間が必要だったのだろう。

また、戦後のGHQの指導により、国家神道だけでなく神道全体への政府支援が禁止された。神道に関する教育も禁止され、日本人は無宗教という刷り込みが行われた。

現代人の我々は、皇室や天皇に対する悪い印象はない。違和感なく天皇中心の歴史観を受け入れているが、武家政権や武士の立場に立ってみると、まったく違う風景が見えてくる。

編集後記「締めの都々逸」

「武士と公家とが 対立しても 庶民にとっては 知らぬこと」

皆さん、家康の立場で考えたことはありますか。自分が家康でなぜ江戸に幕府を開いたのか。なぜ、大きな神社やお寺は関西に多いのか。なぜ、江戸時代に七福神信仰が生まれたのか、これまで考えもしなかったことが次々と頭に浮かんできました。

「知らないうちに、結構洗脳されているんだなあ」と思ったことも、今回の収穫でした。(坂口昌章)

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image by: kuremo / Shutterstock.com

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