あらゆるものに劇的に過ぎる変化をもたらした生成AIの登場。ほとんどすべての知的作業をこなしてくれる力強い存在を得た我々人類は、もはやこれまでのように脳を鍛える必要はないのでしょうか。今回のメルマガ『Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~』では倉下さんが、そんな疑問をGoogleの登場時に交わされた議論を振り返り、かつ実際のChatGPTとのやり取りを紹介しつつ検証しています。
※本記事のタイトル・見出しはMAG2NEWS編集部によるものです/原題:脳に入っている情報
生成AI時代にも必要か?脳に入っている情報
Googleが一般的に使われるようになったとき、「これでもう何かを覚える必要はなくなった」「生き字引きの価値はゼロ」といった言説が見られました。Evernoteのような総合的デジタルノートツールが「Remenber Everything」を謳ったときも同じです。
ちょちょっと調べれば求める情報が得られるのだから、わざわざそれを記憶しておく必要はない。
一見するともっともらしい考えですが、いくつかの点で疑問があります。
■操作するたびいちいちググる?よく使う「情報」
まず極端な例から。
パソコンで「一手戻る」ための操作は、command + z (control +z)です。これはググれば一発で出てくる情報でしょう。だったらそれを覚えなくてもよいでしょうか。その操作をしたくなるたびに、いちいちググる?
さすがにそんなことをしていては、時間がいくらあっても足りません。ここから「頻繁に利用される情報は、覚えておいた方が手っ取り早い」というテーゼが出てきます。
そして、「情報」や「利用」といっても、その内実にはいくつかのパターンがあることもメタ的に見えてきます。
■「たとえ」で考える脳内のプロセス
次に、プロセスの最中に目を向けましょう。
私は文章を書いていて何かの「たとえ」を思いつくことがあります。「野球でいえば」とか「麻雀で言えば」とか、そういった表現ですね。
こうした表現は「この行為をたとえるならばいったいなんであろうか」と悶々と検討した結果として出てきたわけではありません。そうではなく、何かを説明するというプロセスの中において、自然に出てきたものです。
そうした「自然に出てきたもの」の源はどこにあるのでしょうか。もちろん、私が覚えていることです。
私が野球というものをまったく知らない(あるいはその名前しか知らない)であれば、「これは野球で言えば満塁ホームランのようなものですね」と思いつくことはないでしょう。たとえの生成は、脳内に蓄積されている情報が原材料となって行われるわけです。
もしほとんど何も覚えていない人がいたら、その人は何一つたとえを思いつかないでしょう。
これは「アイデア」も同じです。アイデアは既存のものの異なる形のかけ算なわけですが、そうした組み合わせ(の検討)も脳内で行われます。知っていることが少ない人は検討できる組み合わせの総数も少なく、新しい発想が生まれにくいとは言えるでしょう。
そこにあるのは、「パターン」です。
■パターンがない限り進まない創造的な知的作業
「これは野球で言えば満塁ホームランのようなものですね」という説明は、たとえる先が持つ構造や特徴と、“満塁ホームラン”が持つ構造や特徴に何らかの類似性を見てとることで生じます。
単に「満塁ホームラン」に関する知識を有していればいいというものではありません。言い換えれば、質問されたときにその辞書的意味をすらすら答えられればいいわけではありません。そこにある構造や特徴からパターンを抽出していることが肝心なのです。
そうして抽出され、ストックされたパターンが、何かを説明しようとしているときに引き出されてくる。あるいは、既存のものの新しい利用をするときに参照される。そういう構図があるのだと推測します。
どれだけ外部に検索できる知識があっても、脳内にストックされている知識とそこから抽出されたパターンがない限り、創造的な知的作業は進みません。
■生成AI時代にも脳を鍛えておく必要はあるか
さて、上記はGoogle時代のお話でした。検索エンジンは、知的作業を変わってくれない。だから知的作業をする主体として脳を鍛えておく必要がある。これはわかりやすい作業です。
では、知的作業を行ってくれる生成AI時代ではどうでしょうか。それこそ、素材となる情報をどんどんと詰め込めば、そこから新しいパターンを抽出し、それを別の情報へと適用することは人間がやらなくても済むかもしれません。
実際にやってみましょう。
■生成AIに作らせた「もっともらしい名言」
倉下 「人間が人生を生きることを、麻雀というゲームでたとえて、何か名言らしいものを導き出してみてください」
ChatGPT
面白いですね。麻雀を人生にたとえると、運と実力、選択と偶然が絶妙に絡み合うゲームであることが共通点として挙げられます。そこから導き出せる名言風の言葉をいくつか提案します:
1.「配牌は選べない。だが、どう打つかは自分次第だ。」
→ 人生のスタートや環境は選べなくても、そこからどう生きるかは自分の選択にかかっている。
2.「ツモられる日もあれば、アガる日もある。流局しても、次の局が来る。」
→ 良い日も悪い日もある。諦めなければ、人生には次のチャンスが必ずある。
3.「リーチをかける勇気も、オリる冷静さも、どちらも生きる知恵だ。」
→ 攻めるだけが人生じゃない。引くこともまた重要な選択。
4.「ドラが来なくても、手を作る者が勝つ。」
→ 恵まれた才能や運がなくても、工夫と努力で道を切り開ける。
5.「見せ牌でも、捨て牌でも、全てが情報になる。人もまた、言葉より行動に出る。」
→ 言葉より行動が人を語る。注意深く観察すれば、本質が見えてくる。
いかがでしょうか?雰囲気やテーマをもう少し特化させたければ、さらに磨きをかけます。
■知的作業をする際でも何も覚える必要はないのか
できちゃってますね。
どれもこれもそれっぽいです。そもそも「麻雀を人生にたとえると、運と実力、選択と偶然が絶妙に絡み合うゲームであることが共通点として挙げられます」という記述の時点で適切にパターンが把握されていることがわかります。
ただしここには問題があります。そもそもとして、私が「麻雀は運が関わるゲームでその点が人生と似ているのでこれを使っていい感じに言えるだろう」と思ってプロンプトを投げている点です。言い換えれば、私がパターンを抽出していたから、それっぽいものが生成できるプロンプトが考えられたというわけで、若干のバイアスがかかっています。
もしほとんど知識を持たない人が同種のプロンプトを書こうとしたら、そもそも何を挙げていいのかがわからないでしょう。それでも、もっと基礎的なことを確認するプロンプトから始めれば、適切な知識を見つけ出すことはできるでしょう。
同じように、アイデアの発想において組み合わせるべき二つの要素も、非常に基礎的なプロンプトから始め、ランダムな二つの要素を見つけ出し、その要素の組み合わせから導き出されることもプロンプトによって行う、ということも可能そうです。
であれば、私たちは知的作業をする際でも何も覚える必要はないのでしょうか。
おそらくその問いは、二つの変形を持ちます。
一つは「何も覚えていない人が生成AIを使って知的作業をすることができるか?」。これは上の思考実験からいってイエスです。最低限プロンプトの使い方=会話・対話の仕方さえ「覚えて」いれば、知的作業を進めることはできるでしょう。
もう一つの問いは、「生成AIを使って知的作業をするときに何かを覚えていることは役立つか?」。これもまたイエスであることは、キーボードショートカットを覚えることにメリットがあることからもわかります。
無知で使えるからといって、無知で使わなければならないわけではありません。また、二つの状態が同じ成果を出す保証はありません。毎回毎回、いちいち細かいことを尋ね、プロンプトを試行錯誤する代わりに、自分が知っていることを大幅なショートカットとして利用できます。
こうした点からも、人間の脳を鍛えていくことは多いに有効だとは言えそうです。
(メルマガ『Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~』2025年5月26日号の一部抜粋です。ご興味をお持ちの方はぜひこの機会に初月無料のお試し購読をご登録上、5月分のバックナンバーをお求め下さい)
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