「不安」と「無力感」に支配された社会ほど「予言」が重宝される
「心理的な土壌」という表現は曖昧過ぎるかもしれませんね。具体的に言うなら、現代に生きる人々の多くは「漠然とした不安」と「無力感」を抱えているのです。
キーワードは「不安」と「無力感」の二つです。
社会の多くの人々が「不安」と「無力感」を抱えていればいるほど、もっともらしい「終末予言」は信じられやすくなり、社会的ネットワークで拡散され、共有されるのです。
そして、今の世の中で、「将来に対する漠然とした不安」を抱えていない人の方が珍しいのではないでしょうか。
たとえば、なけなしの貯金をはたいて買った株式、今のところ市況は堅調ですが、明らかにバブル景気、いつ大暴落が起きるか分かったものではありません。
インフレで物価はじわじわ上がり続けています。この先、今のような給料で、生活を維持することができるのでしょうか?
戦争に巻き込まれる可能性だってある。
火山の爆発に大地震、おまけに台風やら集中豪雨の水害、日本は災害列島です。
さらに、不安の原因は、社会や自然にだけ有るのではなく、もっと個人的な問題にも潜んでいるのです。
たとえば「健康不安」。自分自身の「健康状態」に100%の自信を持っている人はめったにいません。
それに「人芸関係」。家族や職場、ご近所との「人間関係」にも心配の種は尽きません。
このような各種の不安が束になってあなたに襲い掛かります。
もちろん、解決できるものにはすぐに手を打つのでしょうが、全てが簡単に解決とは行きません。その結果、私たちは「漠然とした」「慢性的な」不安を抱え込んだままになってしまいます。
「自分ではどうすることもできないことが多すぎる」社会
そして、もう一つの要素「無力感」は、現代社会を生きる者にとって避けては通れない課題です。
「環境問題」であれ「戦争」であれ「経済問題」であれ、「自分ではどうすることもできないことが多すぎる」と思ったことはありませんか?これが「無力感」です。
現代のグローバル化した情報化社会は、あまりにも「巨大化」と「複雑化」が進み過ぎました。
その結果、会社組織であれ、行政組織であれ、個人が取り組む相手としては、あまりにも大きく、あまりにもややこしくなり過ぎたのです。
真面目にこんなモンスターの相手にしていれば、誰だって自分が無力であると思い知らされます。だから多くの若者は「コントロール可能な」ゲームの世界へと逃避するのです。ゲームの中のモンスターなら倒すことができますから。
私たちが「世界の終わり」といった「破滅の物語」に魅了されるのは、私たちが抱え込んでいる「無力感」を「圧倒的に制御不能な出来事」によって相対的に正当化してくれるからです。
たとえば、巨大隕石の衝突を回避できる力を持った個人はいません。制御不能なのはあなたの力が弱いからではないのです。あなたに責任はない。
また、「世界の終わり」といった怖ろしい出来事は「漠然とした不安」の原因をそれにより「説明」してくれます。世界が終わるのですから、不安を感じることは当然です。
そして、「原因」が明らかになった「不安」はもはや不安ではありません。なぜなら、不安とは「原因」が分からない「正体」の不明な感情ですから、その正体が明らかになった以上、もはやそれは不安ではないのです。ただの恐怖です。
恐怖より不安の方が楽なのでは?と考える方もおいでかと思います。しかし、明確な恐怖より、慢性的で得体の知れない不安の方が心理的負担は大きいのです。それに、不安の正体(あくまで予言が当たった場合の話なのですが、信じている間はそれが正体です)が分かると、それなりにスッキリして気分が良くなります。
このように、「破滅の物語」は「漠然とした不安」と「自身の無力感」を説明し、正当化し、一時的に忘れさせてくれます。ですから、これら二要素を強く抱えている人たちほど、「世界の終わり」を信じてしまうのです。
しかも、一旦、この種の「予言」を信じると、「自分は隠された『真理』を知っている」という「優越感」を持つことができます。さらに、この真理を誰かに語ることで、「自分は有意義な行動を実践できる」という「自己効力感」(裏付けのある自信)を高めることもできるのです。「優越感」や「自己効力感」は「無力感」を薄めてくれます。
また、SNSが発達した現代では、こうした「終末予言」を信じている人たちどうしのコミュニティーができやすく、そうした人々のつながりは「孤独」を癒してくれ、お互いを支え合うことができるようになります。
こうした人間関係が「漠然とした不安」や「無力感」を和らげてくれるかもしれません。
「世界の終わり」は怖ろしいことであるのと同時に、全てを「ご破算」にして世界を「リセット」してくれるものでもあるのです。言い換えれば、自分を苦しめ、「漠然とした不安」や「無力感」を植え付けた現代社会、今の世界が、きれいさっぱり無くなり、振り出しに戻るということになるわけです。(次ページに続く)









