戦争の悲惨さを目の当たりにするたびに、「人類は本当に学んでいるのだろうか」と問いかけたくなる、と語るのは、メルマガ『ジャーナリスティックなやさしい未来』の著者でジャーナリストの引地達也さん。イスラエルとガザで繰り返される惨劇を前に、幼い時に読んだホロコーストの記憶が刻まれ続けていると言います。
手軽な言論空間でも語られない「平和」
ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』(みすず書房)を見たのは、小学校6年生の時だった。
当時の担任の先生が学級文庫に入れ、朝礼時に神妙な面持ちで、その本の紹介をしたのを今でも覚えている。
ホロコーストの悲劇を話しながら、先生がためらいがちに口にしたのは、ユダヤ人の女性が裸で歩かされている写真を「先生の判断で切り取りました」との説明であった。
「みなさんにとっては、衝撃が大きすぎる」と理由を説明した新しい学級文庫「夜と霧」には、その写真だけ検閲により無くなっていたが、ガス室の様子やユダヤ人の死体の山の写真に衝撃しないわけがなく、私にとってナチスドイツのホロコーストは今も愚かな人類の所業として最上位に位置付けられている。
こんな話を最近よく思い出すのは、イスラエルによるガザの攻撃、パレスチナの国家承認をめぐるニュースに釈然としない現実を見るからだろう。
「夜と霧」は、その後、検閲がない書籍の写真を目にすることが出来たが、戦争という行為が女性を凌辱する時、その記録はおぞましい絵として脳裏にこびりつく。
それは言葉を失った遺体の山よりも、生の声を感じる図として、メッセージ性も帯びてくる。
これらの写真はオリジナル版「夜と霧」には収録されておらず、1956年の日本語版に読者の理解を促すために特別に収録されたという。
もちろん、心理学者であるフランクルの筆致も印象的だ。
この悲劇の記録は、今も強いメッセージとなって、外交に影響を与え続けている。
パレスチナへの徹底的な攻撃をためらわないイスラエルの今と殺される一方だった過去。
ホロコーストは戦後のドイツによる深い反省とユダヤ人が押し殺してきた憎しみを乗り越え、いや、抱えながら今の世界がある。
そして、ドイツは今回もパレスチナの国家承認には及び腰だ。
この記事の著者・引地達也さんのメルマガ
ホロコーストは、イスラエルという国の複雑さを紐解く重要なファクターではあるが、今、ガザで起こる虐殺が答えだとすれば、あまりにも人類は愚かであることに気付かされる。
イスラエルとガザのニュースが報じられた後で、テレビ画面は自民党の総裁選に切り替わる。
5人の候補者たちが景気、外国人、社会保障、それぞれの対策を語るが、残念ながら、そこにイスラエルをはじめとする国際問題への言及は少ない。
ティックトックの動画では、小泉進次郎氏が牛丼を食べ、林芳正氏がピアノを弾きながら歌い、茂木敏充氏が数学の問題を解き、高市早苗氏が英霊を弔う言葉を並べ、小林鷹之氏は経済政策をはつらつと語る。
どれも、自らが発するメディア機能を使って、マス化した視聴者に意図したメッセージを届ける。
そのメッセージは、揶揄されたり、攻撃されたりの、手洗い歓迎を受けるが、デジタルの言論世界ではむしろ、称賛されるばかりなものは、信用度も低くなるから、肯定と否定がほどよいのがちょうどよいのだろう。
簡単に自らのメッセージを伝えられる言論空間だからこそ、平和も語ってほしいと思う。
イスラエルの問題にどのような考えを持って臨めばよいか、日本人の多くが戸惑っているにも見える。
2年間も攻撃され続けている地域の地獄をニュースで見せられても、平和の道筋を示せない社会には、それらの情報は希望のない絶望でしかない。
それは「夜と霧」の中で見た、幾重にも積まれた死体のように、ただただ憎しみと苦しみがあるだけの情報だ。
次の首相になろうという人に臨むのは、希望の言葉。国の進路を先導する役割として、国際社会の一員として、平和構築のプロセスを語り、また実行できる人がいてほしい。
いや、実行するのは難しいから、せめて希望を語ってほしい。
平和に向けてのメッセージを発することから、すべてが始まる。
今のままでは、無関心になってしまいそうで、怖い。
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