村山富市元首相の死去は、戦後のイデオロギー対立の終焉を改めて印象づけ、高市早苗新内閣の誕生は、政治の新しい構造を示しています。メルマガ『ジャーナリスティックなやさしい未来』の著者でジャーナリストの引地達也さんは、イデオロギーを超えた絆が国を動かした時代を知る者として、今また「連立」と「信頼」という言葉の意味を問い直しています。
イデオロギーを超えた連立の絆と破られたガラスの天井
村山富市元首相が死去した。
私が毎日新聞に入社した1994年に自民党、新党さきがけ、社会党の連立政権のもとに誕生した村山首相は、同年7月、国会の所信表明演説で「自衛隊合憲、日米安保堅持」を宣言し、日本社会党の自衛隊を憲法違反とし、日米安保に反対する方針を転換した。
新聞社内でデスクや先輩記者とテレビで国会中継を見ていた私は、先輩の面々が「これで本当に社会党がなくなるなあ」との話をしていたのを思い出す。
自民党に対抗してきた労働運動や部落解放運動等のイデオロギー闘争の中心でもあった存在がなくなる、という現実を突きつけられた瞬間だった。
しかしながら、今も後継の社民党は議席の確保が危うい状況の中で何とか議席を確保しているがが、始まった自民党と日本維新の会による連立政権が推進するかもしれない議員定数削減は、社民党の議席がなくなる現実が鮮明になってくるだろう。
新聞記者時代に支局勤務していた頃は、毎朝すべての新聞に目を通すのが日常業務であるが、それに加え社会党の機関紙「社会新報」も閲覧し、社民党目線のこの新聞は私に社会の見方も教えてくれた。
支局記者として、バランス感覚を持つために、と考えていたが、論理性を備えていた言論と政策がそこに書かれていた。
同時に現実とは距離があることも感じていた。
論理だけでは政治は出来ない現実に言葉を与えてくれたのは社会党だったのかもしれない。
村山元首相が現実と理想の中で気丈にふるまっていた印象は、村山首相が退陣後にも自社さ政権に個人的な関心に続いた。
私が共同通信の鳥取支局に勤務していた時には、村山元首相の側近であり、内閣官房長官を務めた野坂浩賢氏を訪問した。
当時は政界を引退して地元の鳥取で過ごしていて、穏やかな好々爺の風情で昔話を聞かせてくれた。
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場所は当時、野坂氏が理事長を務めていた鳥取県米子市の病院だった。
鳥取で自衛隊基地の反対闘争を指導し、部落解放運動の先頭に立っていた闘志が政権の中枢に上っていくその不思議さ、保守と革新の融合の魔法には伏線があったことなど、直接確認できたのは面白かった。
これは他でも語られていることだが、鳥取での基地反対闘争を通じて当時、鳥取県警本部の警務部長だった亀井静香氏(後の自民党政調会長)と関係を築いたことや部落解放運動を通じて野中広務氏(後の自民党幹事長)とも通じていたことが、連立政権樹立に役立つとは当時は共に想像もしなかっただろう。
野中も亀井も連立樹立に重要な役割を果たし、共に自民党の重責を担う立場となった。
イデオロギーを乗り越えた人どうしの信頼関係があったのが、あの時の連立政権だった。
今回発足した自民党と日本維新の会の連立政権と高市早苗新内閣。
首班指名に向けた多数派工作に少々戸惑いを感じ、野坂と亀井、野中の話を振り返ってみると、今回の信頼関係はどのように築いたのだろうかと問いたくなる。
「タカ派」の女性首相の誕生には、「ガラスの天井」が破られた高揚感と保守性を懸念する声が錯綜する。
そこにはリベラルと保守という2つの立場から語り切れない現実がある。
岩手大学副学長の海妻径子教授は朝日新聞のインタビューでこう指摘する。
「タカ派の方が先にガラスの天井を破ったことを真摯に受け止め、女性が台頭できた『構造』を見ていかなといけません。それは翻って、リベラルはどうしてそういう構造が構築されないのか、ということを考えることになると思うからです」。
リベラルの巨星が逝き、保守の女性の宰相の誕生。
ここから始まることをまた胸に刻みたい。
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