MAG2 NEWS MENU

やりたい放題の「成金」状態。中国を“怪物国家”に育ててしまったお人好し国家ニッポンの重い責任

圧倒的なカネの力と軍事力で、時に他国を懐柔し、時に激しい威嚇姿勢を見せる中国。かような隣国の脅威に晒され続けている日本ですが、彼らを「怪物化」させたのは他でもない我が国であったという事実をご存知でしょうか。今回のメルマガ『大村大次郎の本音で役に立つ税金情報』では元国税調査官で作家の大村大次郎さんが、中国の肥大化に日本が「果たしてきてしまった歴史」を紹介。その上で、時の政権に対する「責任」を問うています。
※本記事のタイトルはMAG2NEWS編集部によるものです/原題:“中国という怪物”をつくったのは日本

我が国の経済援助が招いた暴走。“中国という怪物”を作った日本

昨今、中国との関係が冷え切っていますね。

中国の一番デリケートな問題である台湾問題に関して、高市首相が不用意な発言をしてしまったことが発端ではありますが、中国の対応はあまりにモラルに欠如したものがあります。

先日もコンサートの途中で日本人のミュージシャンが演奏を止められ、退場させられるという、前代未聞の事件が起きました。やり方があまりに暴力的で前時代的です。中国はまだ「基本的な人権」や「国際ルール」を守るという近代国家として基本ができていないように見えます。

これは、中国が「基本的な人権」や「国際ルール」を遵守する体制をつくる前に、経済ばかりが先に発展したことが要因だと思われます。急に大金持ちになった人が横暴に振舞うのと同じようなものです。

中国が近代国家としての品格を持つ前に経済ばかり発展したことについて、実は日本に大きな責任があります。中国を怪物化させたのは、日本だともいえるのです。

今回から数回に分けてその経緯をご説明したいと思います。

世界的に孤立していた中国共産党政権

今の中国の国家体制は、1949年に共産党が国民党に勝利したことによって生じます。いわゆる中華人民共和国の誕生です。

この共産党政権樹立後の中国は、アメリカの不承認により、国際的には国家として認められない状態が続いていました。国際的には孤立していたのです。

共産主義同士のよしみで、ソ連とは関係がありました。1950年に「中ソ友好同盟相互援助条約」を結んでいます。この条約で、中国はソ連から3億ドルの借款を受けることになったのです。

当時は東西冷戦の真っ最中だったのでこれを見たアメリカは、1950年には中国に対する輸出を禁止します。中国は完全に西側諸国とは断絶状態になるのです。

それからの中国は経済発展には程遠く、紆余曲折の連続でした。中国は、ソ連の経済計画などを模倣し、1958年には「大躍進計画」などというものを発動させます。これは世界第2位の経済大国だったイギリスを15年で追い抜くという、当時の中国から見れば、途方もなく無理な目標でした。

農工業に無理なノルマを課していた上、鉄鋼など一部の分野を数値を上げることばかりに執着したため、各産業の効率が落ち、経済は大混乱をきたしました。3,000万人から5,000万人の餓死者を出したともされ、計画はたった3年であえなく頓挫しました。毛沢東は、この責任をとって、国家主席を辞任しました。

しかも、1950年代の後半には、中国とソ連の関係にひびが入ります。1957年、フルシチョフは自由主義圏との平和外交を展開し、その一方で、中国に警戒感を抱くようになります。中国は、他の東欧諸国のように、ソ連の言いなりにはならなかったからです。59年、ソ連は、中国に対して突然、原爆の技術供与の停止をしました。

この記事の著者・大村大次郎さんを応援しよう

メルマガ購読で活動を支援する

※ワンクリックで簡単にお試し登録できます↑
¥330/月(税込)初月無料 毎月 1日・16日
月の途中でも全ての号が届きます

ソ連に戦いを挑み領土を奪い取った中国の図太い神経

また同年、中国はチベットをめぐりインドと武力衝突しましたが、ソ連は中立の立場をとりました。ソ連が支援してくれると思っていた中国は、あてがはずれました。それやこれやで中国とソ連の間は急激に悪化していったのです。そして、60年代になると、中国とソ連は、武力衝突までしてしまいます。

中国とソ連は、かねてから国境問題がありました。仲が良いときには、その問題は棚上げされていましたが、仲が悪くなるとそれが再燃してきたのです。

中国とソ連(ロシア)が、近代的な意味での国境線をひいたのは1858年から60年にかけてです。このとき中国とソ連(ロシア)は、北京条約という条約を結び、一応の国境線を確定しました。

しかし、当時の中国は清の末期。アヘン戦争に負けたばかりのときです。清としては、ロシアに対してあまり強く発言できませんでした。もちろんロシアがそこにつけこんだ面もあります。だから、中国側としては、このとき決められた国境は不公平という気分をずっと持っていたのです。

それからすぐに、ロシアで革命が起き、ソ連という国ができます。それ以降、第二次大戦が終わるまでは、中国とロシアの国境付近には日本が進出し、ロシアの領土に深く食い込んでいました。そのため中国とソ連は、直接、対立することはありませんでした。

しかし、第二次大戦で日本が敗北することにより、中国とソ連が直接、対峙することになります。中国にしてみれば、清末期のどさくさの中で、決められた国境線には不満があったのです。

当時、中国とソ連には国境問題がありました。中国、ロシアの国境の半分は河川で引かれています。アムール河、ウスリー河などです。

この大河の中には、島が2,500個近くもあるのですが、ソ連はこの島々のほとんどを我が物にしていました。

通常、河川を国境とする場合、河川自体も半々で領有することになっています。だから、河川の中にある島も、半分ずつ領有するのが基本です。

中国はたびたび「河川の中の島を半分渡してくれ」とソ連に打診しましたが、ソ連は受け付けませんでした。業を煮やした中国は1969年3月、ウスリー河に浮かぶ珍宝島を強襲したのです。それを皮切りに中国とロシアの国境全体で小競り合いが起こりました。

このとき、ソ連も中国も核兵器を持っており、もし両国が本気で戦い始めれば、核戦争に発展するおそれもありました。もちろん人類絶滅になるようなことは、どちらも望んでおらず、結局、ソ連が珍宝島ほかを諦めて、なんとか事は収拾したのです。

それにしても、当時のソ連というのは、共産圏の親玉でありもっとも勢力を持っていたときです。アメリカに匹敵する軍隊、核ミサイルを何万発も持ち、泣く子も黙る超大国でした。アメリカをはじめとする西側諸国も、ソ連とだけは直接戦争をしないように、神経をすり減らしていたわけです。そんな強いソ連には戦争を仕掛ける国などはいませんでした。

中国は、そういうソ連に戦いを挑んで、しかも領土を奪い取ったのだから、その神経の図太さには、目を見張られます。

この記事の著者・大村大次郎さんを応援しよう

メルマガ購読で活動を支援する

※ワンクリックで簡単にお試し登録できます↑
¥330/月(税込)初月無料 毎月 1日・16日
月の途中でも全ての号が届きます

アメリカにとって「渡りに船」だった中国の方向転換

このソ連と中国の関係悪化により、中国は西側諸国への接近を探り出します。まだまだ発展途上国だった中国は、ソ連の支援がなければ近代化はできませんでした。しかし、ソ連の支援はもうあてにできません。そのため、西側諸国、特にアメリカの支援を受けようと考えたのです。

当時、アメリカは、ベトナム戦争の泥沼にはまっており、中国の方向転換は渡りに船というものでした。そのためアメリカは、中国への経済制裁を徐々に緩和していきました。1969年には、アメリカ人の中国渡航制限が緩和され、アメリカから中国への非戦略物資の輸出制限が取り払われ、中国製品の輸入制限も緩和されました。

中国(中華人民共和国)という国は、建国以来、アメリカなどの西側諸国からは国として認められていませんでした。西側諸国は、台湾の国民党政府と国交を結んでいました。だから台湾国民党政府が中国を代表する政府であり、一国に二つの政府は認められない、という姿勢をとってきたのです。

中国本土では、共産党政府が政権を握っており、国民党政府は台湾だけしか統治していないにもかかわらず、西側諸国にとって「中華人民共和国」は存在しないものと扱われていたのです。もちろん、西側諸国は、中華人民共和国とは国交を樹立していませんでした。

しかし、中国のこの方向転換により、西側諸国も中国との国交樹立を模索し始めました。そして1972年に、西側諸国で最初に中国と国交を回復したのは、日本なのです。

その後、堰を切ったように西側諸国と中国の関係回復が図られます。その年、アメリカのニクソン大統領の中国を訪問し、国交樹立に向けて動き出します。1979年には、ついにアメリカと中国の国交が樹立し、ほぼ同時期に中国は改革開放政策に乗り出すのです。

このとき、アメリカは、アメリカ国内の中国人資産8,050万ドルの凍結を解除し、中国はアメリカから請求されたアメリカ人の中国資産1億9,680万ドルのうち8,050万ドル分の返還を行ないました。

つまりは同額の返還で手を打ったのであり、戦前の貸し借りはチャラということになったのです。

が、アメリカが中国国内に持っていた資産の方が、中国がアメリカ国内に持っていた資産よりも大きかった(約2倍)ので、アメリカが損をしたということなのです。それだけの損をしても、アメリカにとっては中国との国交樹立は大きなものでした。なにしろ、共産主義陣営の大きな一角が崩れるわけだからです。

この10年後にソ連・東欧の共産主義陣営は崩壊しますが、この中国の離脱も大きな要因になっているといえます。中国は、アメリカと国交樹立して以降、急激な経済発展をし、それは東側陣営の経済停滞をより際立たせるものとなったからです。

日本の手引きで世界と経済交流できるようになる

中国の改革開放政策や、西側陣営との経済交流に、非常に大きな役割を果たしたのは、日本です。前述したように、日本はアメリカよりも一足早い、1972年に中国と国交を回復しました。

日本と中国の間には、厄介な問題がいくつも横たわっていました。その最大のものが賠償問題です。

日本と中国の戦後賠償は、台湾国民党政府の間で交わされた日華平和条約により、「中国側が賠償請求権を放棄する」ということになっていました。しかし、中国大陸で政権を樹立した中国共産党政府は、これに反発し、賠償請求権を主張し続けていたのです。

が、1972年の国交交渉の際、中国側は賠償請求権を放棄しました。その代わり、日本は経済援助をするという暗黙の了解があったのです。この日本の経済援助が、中国の近代化に大きく役立ち、改革開放政策を成功させた要因の一つとなったのです。

この記事の著者・大村大次郎さんを応援しよう

メルマガ購読で活動を支援する

※ワンクリックで簡単にお試し登録できます↑
¥330/月(税込)初月無料 毎月 1日・16日
月の途中でも全ての号が届きます

戦後の中国に対して最大の援助をしてきた日本

またその後の中国の改革開放政策に対し、日本は水先案内人のような役割をしています。国交を回復した日本と中国は、すぐに経済面での協力を開始しました。

広大な土地を擁し、潤沢な資源が眠る中国には、日本の経済界も強い関心を持っていました。1978年には、上海宝山製鉄所プラントの建設に、日本企業が参加することになりました。

が、当時の中国は、経済力がまったくなく、財政規模も小さかったのです。中国が、改革開放路線を敷いた1978年当時、中国が想定していた主な輸出品は、石油、石炭などのエネルギー資源でした。

現在でこそ、中国は大量のエネルギー輸入国となっていますが、当時はまだエネルギー資源は他国に輸出するほどあったのです。というより、欧米に比べて工業化が遅れていた中国は、エネルギー資源くらいしか売ることができなかったのです。

しかも、そのエネルギー資源を売ることもままなりませんでした。当時の中国は、エネルギー資源の開発もまだ緒についたばかりであり、輸送する鉄道、港湾施設などの整備もされていなかったのです。

また1972年の日中国交回復から1980年までの間で、日中の貿易額は8倍に増えましたが、その内訳は中国の大幅な貿易赤字でした。中国の日本に対する貿易赤字額は71.57億ドルにも達していました。

対日本のみならず、欧米との貿易においても、中国は赤字が蓄積していました。1978年から1980年までの3年間で、44.43億ドルの赤字累積となっていたのです。現在とは、まったく逆です。改革開放したばかりの中国では、農産物などが主な輸出品であり、不可価値が低かったのです。

中国側も、産業の遅れは重々自覚しており、1976年には、国民経済発展10か年計画を発動していました。これは10個の大石油基地、10個の大鉄鋼基地、9個の工業基地をつくるという計画でした。

しかし、この計画を遂行するには、欧米から莫大な額の技術やプラントを導入しなければなりません。が、当時の中国は、前述したように、改革開放以来、急激に貿易赤字が膨らんでおり、外貨準備高が激減していました。

1979年には8.4億ドルだった外貨準備高は、翌1980年にはマイナス12.96億ドルになっていました。つまり、工業発展のための施設を整えたくても、お金がなくて整えられないという状況だったのです。

それを見かねた日本側は、日本政府からの円借款、経済技術協力を要請したらどうか、と持ちかけました。中国側は、資本主義国からお金を借りたり、技術支援を受けたりすることに抵抗があり、若干の逡巡もありました。それまで中国共産党は、「借金をしない国家財政」を誇りとしていました。

欧米の近代国家は、内外からお金を借りて国家運営をしています。そのために、財政危機になったり、他国の経済侵攻を招いたりもすることもあります。

中国の共産党は、そういう近代国家の弊害である「借金財政」をしない、としてきたのです。だから、日本からお金を借りるということについては、釈然としない部分もありました。

が、時の指導者、鄧小平が決断し、日本に円借款の要請を行ないました。その結果、1979年から、日本の円借款、経済技術支援が本格的に始まります。

この年、「石臼所港建設」「北京~秦皇島間の鉄道拡充」など中国の6つのプロジェクトに、500億円の円借款が行なわれました。これを皮切りに、日本は中国へ多額の支援を行ないました。戦後の中国に対して、最大の援助をしてきたのは、日本なのです。

また日本の無償援助により、近代的な病院を建設することも決められました。これは、「中日友好病院」として、1984年に北京に開院しました。最新鋭の設備を持ち、建築面積18万平方メートル、ベット数1,500という大病院です。日本の慶応大学病院よりもはるかに大きいのです。

この中日友好病院は現在でも、中国医療の中枢機関としての役割を担っています。

この記事の著者・大村大次郎さんを応援しよう

メルマガ購読で活動を支援する

※ワンクリックで簡単にお試し登録できます↑
¥330/月(税込)初月無料 毎月 1日・16日
月の途中でも全ての号が届きます

「天安門後」の日本の対応で国際的孤立を免れた中国

中国は、西側諸国との国交回復の後、急激な経済成長をはじめますが、1989年にいきなり大きな障害にぶつかってしまいます。天安門事件が起きるのです。

天安門事件とは、民主化を要求した学生たちが北京の天安門広場を占拠し、それを中国政府が軍を用いて強制排除したというものです。事件の詳細は、現在も公表されていませんが、西側の報道機関の分析では数千人が犠牲になったということです。

中国は西側諸国との国交回復以来、大量の留学生を西側諸国に送っていました。日本も、このころから相当の人数の中国人留学生を受け入れていました。欧米や日本の自由に空気を学んできた留学生たちは、どうしても母国を不自由に思ってしまいます。

また西側諸国と交易をするうちに、嫌でも西側諸国の情報は入ってくるようになり、多くの人々が「中国が非民主的な国」であることを知ってしまったのです。その不満が形になって表れたのが、天安門事件でした。

中国当局は、最初は静観していましたが、学生運動が盛り上がるのを見て、急激な民主化には応じられないとして、武力鎮圧に踏み切ったのです。この天安門事件を受けて、西側諸国は一斉に中国政府に抗議をし、制裁措置を講じました。

しかし、このとき日本の中国に対する抗議、制裁は最小限のものにとどまったのです。

日本は中国に対し「これ以上、国際非難を浴びるような人権侵害行為をしないこと」「中国の改革開放政策に協力する方針には変わりはない」というメッセージを送り、経済支援規模を若干、縮小しただけで済ませたのです。

これは、中国が国際的に孤立しまた共産主義陣営に戻らないように、という配慮もありましたが、日本側の事情もありました。

すでに当時、多くの日本企業が中国に進出し、多額の投資も行っていました。中国の対外債務の半分以上は日本に対するものだったのです。ここで、中国の経済成長が止まったり、中国との交流が断絶すれば、日本側のダメージも大きかったのです。

この日本の対応により、中国は、国際的に孤立することを免れたのです。

この事件では、中国がまだ「基本的人権が確立されていない」「民主化されていない国」だということが露呈しました。にもかかわらず、この事件で中国はそれほど国際的なダメージを受けませんでした。当時最大のオーナーだった日本が、厳しい態度を見せなかったからです。

このことが中国に「人権なんか守らなくても大丈夫だ」という「誤った成功体験」をもたらしたともいえます。

もしこのときに日本が中国に対して毅然とした態度をとっていれば、中国は今のように横暴にはなっていないかもしれません。

次回は、その後の中国と日本の関係、中国が横暴になっていく過程などについてお話したいと思います。

(本記事はメルマガ『大村大次郎の本音で役に立つ税金情報』2025年12月1日号の一部抜粋です。「“老後の離婚”の年金」「“老後の結婚”と年金」」を含む全文はご登録の上ご覧ください。初月無料です)

この記事の著者・大村大次郎さんを応援しよう

メルマガ購読で活動を支援する

※ワンクリックで簡単にお試し登録できます↑
¥330/月(税込)初月無料 毎月 1日・16日
月の途中でも全ての号が届きます

【ご案内】元国税調査官の大村大次郎氏が、事業者向けの専門記事をプラスした特別版」の有料メルマガを新創刊しました。さらに高度な情報をお楽しみください。

【関連】財務省の秘密警察部門、国税庁が「国会議員の不倫調査」を得意とするワケ。全国民監視の強大権力、分割急務(作家・元国税調査官 大村大次郎)

image by: Jimmy Budiman Pictures / Shutterstock.com

大村大次郎この著者の記事一覧

元国税調査官で著書60冊以上の大村大次郎が、ギリギリまで節税する方法を伝授する有料メルマガ。自営業、経営者にオススメ。

有料メルマガ好評配信中

  初月無料で読んでみる  

この記事が気に入ったら登録!しよう 『 大村大次郎の本音で役に立つ税金情報 』

【著者】 大村大次郎 【月額】 初月無料!¥330(税込)/月 【発行周期】 毎月 1日・16日 発行予定

print

シェアランキング

この記事が気に入ったら
いいね!しよう
MAG2 NEWSの最新情報をお届け