かつて「アルファレコード」という会社がありました。YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)を世に送り出し、荒井由実(ユーミン)、ガロ、赤い鳥、ハイ・ファイ・セット、サーカス、シーナ&ザ・ロケッツらを育て、「シティポップ」という言葉が生まれるはるか以前から日本のポップスの水準を塗り替えていった、伝説のレコード会社です。創業者で作曲家の村井邦彦と、プロデューサーの川添象郎。海外を自在に行き来した二人の感性は、いかにして「日本の音楽」を変えたのでしょうか。この度、当時アルファに在籍し、ディレクターとして数々の現場に立ち会った千装敏夫(ちぎら・としお)氏と高橋理(たかはし・おさむ)氏のお二人が、YMOのデビューから散開(解散)、¥ENレーベルの設立、そして村井・川添という稀代のプロデューサーたちの素顔まで、これまであまり語られてこなかった「アルファという現場」について惜しみなく明かしてくれました。(聞き手:音楽ライター・ 都鳥流星、協力:堀江大輔)
二人の出発点は、「宣伝・販促」と「ミッキー・カーチスのアシスタント」
──本日はお忙しい中、お時間をいただきありがとうございます。昨今、海外で日本の70年代から80年代までのシティポップが再評価されていますが、その中でもアルファレコードが生み出した楽曲群は高い評価を得ていると思います。まずは、お二人がアルファに入られた頃のお話からお伺いできればと思います。
千装: 私は、アルファが芝浦へ移ったときからでした。芝浦のスタジオシティというビルの一階のスタジオに通っていましてね。高橋さんは何年に入られたんでしたっけ。
高橋: 僕は80年です。
千装: あ、80年ですか。じゃあ、2、3年ぐらいしか違わないようです。私が入社した時期(1978年)は上司であり司令官、隊長の後藤(順一)さん(のち博報堂キャスティング&エンタテインメント社長)、そして村井さんが大学で在籍していたクラブ「ライトミュージックソサエティー」からの後輩でディレクターの有賀(恒夫)さんや宮住(俊介)さん、その世代の先輩達は「三田東急アパート」に村井さんがアルファミュージックを設立した時代からの方々で、米A&Mレコードと契約したのち芝浦ヤナセビルに移転し活動し始めた頃です。ディストリビューターをビクター音楽産業(当時)と契約し、宣伝、営業を自社でもスタートし始めた頃でアルファの「黎明期」ということで言えば確かにその時期でした。
──千装さんは、入社当初は制作ではなく、宣伝の側にいらしたとか。
千装: 販促と宣伝です。当時は人数が少なくて、社員全員で20人もいませんでした。私は1978年の新卒で、3名の入社でした。名古屋と大阪──関西方面の宣伝を申しつかって、名古屋の東海ラジオ、CBC、FM愛知、大阪のFM大阪、ABC、MBS、読売テレビ、関西テレビ等を回り、サンプル盤を東京から届けていました。当時は大阪に営業所がなかったので、大阪のビクターの営業所を借りていました。マスコミを回って吉田美奈子、渡辺香津美のアルバムを「オンエアしてください」と配って回りました。また、アルファレコードの人数より多い大阪は60名以上、名古屋は30名くらい営業所のセールスマンで百戦錬磨のプロの皆様がいました。まだイニシャル(初回出荷枚数のこと)という言葉も知らずに、新譜のプレゼンをしていました。

千装敏夫(ちぎら・としお)氏
その後、1年半ほど大阪に転勤になりました。米A&Mレコードの日本の販売元がキングからアルファになったばかりで、パブロ・クルーズ、リタ・クーリッジ、カーペンターズ、ピーター・フランプトン……などなど売らなければいけない洋楽がたくさんありましたから、「一人で東海、関西圏を頑張ってこい」と。(アルファと資本関係にあった輸入車ディーラーの)ヤナセの子会社であるCM制作会社TCJに「アルファの室長(?)」という自称肩書きで置いてもらって、78年から79年にかけて1年半ほど大阪で宣伝、販促活動をしていました。大阪に1名採用されて毎日メディアをまわり、メディアの方、音楽関係、当時のディスコ関係者、他社で先輩のメジャーレコード会社のプロモーターと、よく言えば交流(遊びかも、、今思えば)して業界の洗礼を受けていました。
──高橋さんは、ちょうどYMOの『BGM』(1981)が完成する頃からの関わりだったと伺いました。
高橋: アルファに入ったのは1980年です。最初の1、2年はミッキー・カーチスさんのアシスタントをしていました。当時アルファには二人の契約プロデューサーがいて、一人は細野さんで、もう一人がミッキーさんでした。シーナ&ザ・ロケッツの『ピンナップ・ベイビー・ブルース』とかは、そのアシスタント時代の仕事です。成城の東宝撮影所のスタジオでライブ録音して、戦艦大和が浮かぶプールの前にメンバーが立っている、赤いジャケットのやつ。発売は81年ですね。

高橋理(たかはし・おさむ)氏
YMOの『BGM』が出たのも81年です。その頃、アルファの先輩ディレクターの小尾一介(おび・かずすけ)さんのお手伝いをすることになって、(『BGM』の)音はもう出来上がっていたので、ジャケット制作のメッセンジャーボーイのような下働きで関わったのが最初でした。YMOの本人たちと直接何かをするわけではなかったんです。

YMO『BGM』(1981)
ジャケットのアートディレクターの奥村靫正(おくむら・ゆきまさ)さんの事務所とやり取りするのにも、今のようにネットがあるわけではないので、直接お伺いしてデザインの版下をいただいたりしていました。
村井邦彦と川添象郎──「アルファ」誕生の物語
──アルファ創業者のお二人、村井さんと川添さんのことを、みなさんはどのように見ていらしたのでしょうか。
千装: みんな忙しかったから、あまりよく覚えていませんが『[アルファの伝説] 音楽家 村井邦彦の時代』(河出書房新社、2016年)を読んでも、現場で見ていた私からすると「あれ、話が違うな」と思うところもありました。僭越ですが歴史というのは、日本書紀と古事記のようなもので、書いた者勝ち(笑)。というより、村井さんはとてつもない数のアイテムを回し決断、実行されていて、現場の我々フォロアーからの視点との相違は当たり前でしょう。特に後藤さん、初期YMOのディレクター小尾さん(川添象郎さんがスカウトして入社)、現場の角度からの話も違う視点がある。いずれにしろ村井さんの卓越した先見性、リーダーシップに我々一兵卒がついていったことは間違いありません。
すごい転換期は1978年です。YMOの前に、細野晴臣さんのソロアルバム『はらいそ』がのちにYMOへ繋がっていきますが、ちょうどその頃、アルファは深町純さんのニューヨーク・オールスターズというフュージョンを推していて、村井さんや川添さんは、どちらかというと、フュージョン系の方に力を入れていました。新入社員の私は編成会議での両巨頭の会話をよく覚えています。
その後、78年に細野さんがYMOの一枚目(『イエロー・マジック・オーケストラ』)を作った時、編成会議で村井さんが「深町のコレが最高だろう」と言って、その後に「細野がこれ作っちゃって」と。

『イエロー・マジック・オーケストラ』日本盤(1978)
だけど、これが村井さんのすごいところで、細野さんをすごく信頼してもいた。凄い勢いで海外ライブへの実施の決断、その後の結果があるわけです。その前に米A&Mとディストリビューション契約の中に「相互発売契約」と明記し(それには村井さんの先見性、海外でのヒットの野望があった)、発売までこぎつけるわけです。

『イエロー・マジック・オーケストラ』US盤(1979)
──その海外進出が、アルファという会社の出発点そのものにもつながっている、と。
千装: ええ。村井・川添のお二人は「マイ・ウェイ」という曲のサブパブ契約による成功体験がありました。フランスで遊んでいた時に「マイ・ウェイ」の日本における著作権管理代理契約を得た。「会社がないと権利を扱えないから、会社を作ろう」と帰国してアルファミュージックを作った。これは村井さんも川添さんも同じ話をしていました。私が2014年にLAビバリーヒルズのご自宅へ伺った時にも、そのエピソードを聞かせてもらいました。
「ALFA」という社名は、<ALPHA>にするはずが、川添さんが綴りを間違えただけだそうです(川添さん談)。村井さんは「イプシロン(ε)にしたい」と言っていたとか。でも、順番として一番がいい、ということで「α(アルファ)」にしたと伺いました(LAビバリーヒルズ邸宅にて村井さん談)。

アルファレコードのロゴ
しかもその発端については、川添さんがフランス在住時、画家のサルバドール・ダリと遊んでいて彼からの紹介でミュージカル<ヘアー>のプロデューサーと知り合いになり、日本に招聘したという当時までさかのぼります。ダリが「これからミュージカルのリハーサルを観に行くからどう?」と誘われて行ったら、そのプロデューサーに「象郎、お前は何座だ?」「水瓶座(アクエリアス)だ」というやり取りから、招聘の権利をもらって開催したと。それらの活動中に、村井さんとフランスのバークレイ・レコードのオーナーと出会い、そこに曲のプレゼンにきていて廊下で出会った作曲家・ギタリストが作っていた「マイ・ウェイ」の原曲(クロード・フランソワの「コム・ダビチュード」)に出会ったと(川添さん談)。ダリと遊んでいた?! マジか?! 日本人でそんな人がいるんだ?! と思いました。
その話の際に、川添さんはこう言っていました。「犬も歩けば棒に当たるのだから、とりあえず歩かなきゃいけないんだ」と。凄いストーリーですね!
──60年代当時を思わせる、いいエピソードですね。
アルファ海外戦略と、新入社員が見た「異次元」の光景
千装: YMOのデビューの時、ヨーロッパ・アメリカツアーをやるという話を、編成、宣伝会議で村井さんと川添さんが二人で話されていました。でも我々のような新入社員には、何を言っているのか分からない。「アメリカやヨーロッパで先にライブをやって、日本へ逆輸入したらいいのでは」と。「パリならディスコ、バンデューシュとかル・パラスだね!」「ニューヨークならボトムラインだ」と、向こうのライブ会場と地名がポンポン出てくる。サン・ローラン、レノマ、セルッティーを呼んだり、モデルを呼んだり、写真やビデオを撮ったりしたら面白いのでは?! とかの二人の会話に、私はチョコレートの銘柄か?そんな人実在しているの?というか、ほぼ誰それ?という無知のレベルでした。
イニシャルが千数百枚しかない、レコード店に棚もないバンドが、なぜ欧米ツアーをやるのか。我々にとっては、初めて見たアヒルが親だと思うような感じで「何をするのだろう」とザワザワしていた。それでも村井さん、川添さんからすれば、向こう(欧米)に長く住まわれ、REC、契約をし、川添浩史さん(象郎さんのご尊父)のフランス社交界での幅広い人脈の影響があり、それは決して非日常ではなく確信をしていたようです。村井さんがのちに、当時の東芝EMIの乙骨剛社長に「村井君、あのワールドツアーはプロモではなく博徒だよ!」と言われたよ、と笑っていたのが印象的でした。

YMOワールドツアーライブ盤『公的抑圧』(1980)
20数人ばかりの会社でしたが、ツアーもライブも記者会見も、めちゃくちゃに濃かった。YMOの記者会見は東京と大阪で実施、「スピーカーは一番いいものを用意して。お金は関係ない」と。記者会見での視聴なのに、イベンターに頼んで、とにかく一番大きく、一番いい音のスピーカーを入れました。
──それは誰の指示だったんですか?
千装: のちに(株)博報堂キャスティング&エンタテインメントの社長に就任された当時の制作、宣伝の指揮官、後藤順一さんが指示を出していました。YMO第一回ワールドツアーの壮行会の時も、川添さんのご自宅である三田綱町パークマンションで、ホテルオークラのシェフを呼んで、一晩で300数十万円の壮行会(当時の同期で経理にいた種市さん談)。イニシャル千数百枚のバンドの壮行会に、自宅でケータリング300万円、ですよ(笑)。
レコーディングディレクターという仕事の変質
──当時、ディレクターの役割というのは、どういうものだったのでしょうか?
高橋: 有賀さんや宮住さんといった方々は、レコーディングディレクターでした。誰に演奏をやらせるかを選び、自らコーラスアレンジまで手がける。サーカスやハイ・ファイ・セットのアレンジを有賀さんがやっていました。それがディレクターの仕事なんです。
ところが、YMOや¥ENレーベルのアーティストたちは、我々よりはるかに音楽の知識があって、実技もできる。彼らに「この和音を変えてみたら」などと言っても、我々よりずっと上の作業をしている。だから「やってください」と任せるしかない。ただ、彼らが「すごくいいものができた」と言っても、「それで世の中に出せるのか」と問うと、「友達はみんないいと言っている」と返ってくる。それを最大公約数として、ビジネスにするのが我々の仕事ではないか、と私は思っていたんです。私はレコーディングディレクターになりたくてアルファに入ったのに、もうレコーディングディレクターはいらない、という時代にどんどんなっていった。そして今や家でも音楽が作れてしまう。ちょうど、その変わり目だったんですね。
──千装さんも、81年前後から制作に回られたのですよね。
千装: ええ。A&Rディレクターという立場で、先輩の宮住さんたちのアシスタントをしながら、情報を持ってきて宣伝もし、海外ツアーの予算制作、稟議書作成、コピー&お茶くみもと何でもする時代でした。
印象に残っているのは、80年代にティン・パン・アレーのキーボーディストだった故 佐藤博さんのレコーディングを、ゼロからやらせてもらったこと。打ち込みやレコーディングのイロハを佐藤さんから教わりました(教わりながらスケジュールを詰める立場、恐縮でした)。
もう一人が、トランペットの故 近藤等則さん。ディレクターとして、オーストラリアのレコーディング、海外レーベルとの発売の際にメディア招待パーティーや、北京解放地区万里の長城、昆明少数民族集会広場、石林(カルスト地形台地と巨大鍾乳洞洞窟内)、香港のライブ(西武百貨店全館の中国フェア向け撮影や音源収録も兼ねた過酷なライブ)に同行して、アーティストの思考回路というものを学びましたね。また有賀さんに付いて実施した、女性ボーカル吉野千代乃さんのプロジェクト、REC(佐藤博、菅野ようこ、中村哲、作詞は松井五郎氏)との仕事はのちにとても役に立ちました。いずれにしろRECの現場の先輩、アルファ専属のエンジニア小池光夫さん、寺田康彦さん、瀬戸宏征さんにお世話になりながら、またのちに部下となるミュージックマインドたっぷりの緑川千佳子さん、矢島潤一君に手伝ってもらい(丸投げだったかも…反省含め…)、かなりの数のリミックスアルバム、企画アルバムを制作していました。
YMOの現場──テクノデリックという「パーソナルな」制作
──高橋さんは、制作の現場でYMOにどう関わられたのでしょうか?
高橋: 『BGM』に続く『テクノデリック』も発売は81年でした。手伝ってはいましたが、これは非常にパーソナルな作り方をしたアルバムだと思います。主にアルファが持っていた文京区音羽のLDKスタジオで、各々が曲を作っているような感じでした。エンジニアは小池光夫さんで、僕はいるだけ、という部分もありました。

YMO『テクノデリック』(1981)
『テクノデリック』の頃、細野さんと一緒に銀座のヤマハへ、LDKに入れるアップライトピアノを買いに行ったのをよく覚えています。細野さんのお父様は調律師で、おじいさまはタイタニックに乗っていた方ですから、ヤマハでもすごい高待遇でね。帰りに「スイス」という喫茶店でお茶を飲んだのをよく覚えています。
それ以外は、もう見ているしかないんですよ。YMOの音楽を作れる人なんて当時いないわけですから。それよりも、ここまで出来たものをどうやって世の中に知らしめるか、宣伝のスタッフにラフミックスを聴いてもらって戦略を立てたり、ビジュアルをどうするか──そちらが僕らのメインの仕事になっていきました。ポスターを十万名様にプレゼント、というような企画もやりました。オンエアで自然に入ってくる音楽ではないので、「YMOだからこそ十万枚もポスターが刷れる」、そういうところで勝負しようと考えていたんです。
¥ENレーベルとその周辺
── 82年にYMOが一度休止して、¥ENレーベルが動き出します。社内的にはどうだったのでしょうか?
千装: 細野さんと(高橋)幸宏さんが「若い才能がいっぱいいる、それをどうにかしたい」ということで、「じゃあレーベルを作りましょう」と、村井さん指示で小尾さんが立ち上げました。社内的には、村井さんは「これ、大丈夫か?」という反応でしたよ。ちょうど(山下達郎のレーベル)ALFA MOONができて、山下達郎さんや竹内まりやさんのアルバムをプロデュースし始めた頃で、¥ENレーベルはさらにアンダーグラウンドに行くのかな、というイメージだった。
ところが外に持っていくと、我々の予想以上に期待感があった。細野晴臣ソロ、高橋幸宏ソロは別として一番衝撃を与えたのはゲルニカでしょうね、戸川純、上野耕路、太田蛍一。昭和初期、戦前のような世界観で、みんな「何だ、これは」と。
高橋: その¥ENレーベルの現場を担っていたのが僕らです。篠崎恵子が細野さん担当、僕が幸宏さん担当でした。細野さんのソロアルバム『フィルハーモニー』(1982)は「本当にできるんですかね」と言っていたら、本当に短い期間── 凝縮した何日かで出来てきて、本当にすごいなと思いました。僕は立花ハジメさん、それから幸宏さんのソロ等を担当して、ソロツアーにも全部同行しました。
ゲルニカは篠崎の担当で、僕が手がけたのは『銀輪は唄う』の一曲だけです。これはシングル盤で、フルオーケストラ。西郷山のメディアスタジオという大きなスタジオが休業する一週間ほど前のぎりぎりのタイミングでレコーディングしました。
その後、篠崎が会社を辞めてしまったので、戸川純ちゃんがソロになってからは僕が担当しました。純ちゃんの事務所は役者さんの事務所で、ツアー等の音楽活動は本業ではなかったので僕が全部ついていきました。『極東慰安唱歌』『好き好き大好き』(ともに1985)といったアルバムですね。
──高橋さんは、立花ハジメさんのソロ『H』も担当されたとか。
高橋:あれは僕です。『H』のジャケットに写っている三角形のオブジェ──あれは「アルプス1号」という楽器で、鉄製で重いんですよ。溶接で作って、楽器車でツアーにも運んで、ピンマイクで鉄を叩く音を拾ってイコライザーで増幅して音を出す。当時はハジメさんの所属事務所がなかったので、ツアーは全部僕が仕切りました。初回盤『H』のレコードの帯の裏には、「立花ハジメ音楽事務所」の連絡先として、僕の名前と電話番号が入っているんです(私も持っていないので、お持ちの方がいたら、是非見せていただきたいです)。アルファの私の机の上に着信専用の電話が一台あって、それが立花ハジメ音楽事務所でした(笑)。今では考えられませんよね。
アルプスは、1号が鉄製のオブジェ。2号はTAMAのスネアを二十個並べて電子信号(クリック)でドラムスティックがスネアを叩くもので、当時幸宏さんがTAMAのモニターだったので「スネアを20個ください」とTAMAの本社に行って頼みました。3号は自動ドアのセンサーの原理で、センサーの信号を手とかで切ると音が出る仕組み。号を追うごとに小さく軽くなっていきました(笑)。
──そういえば、スネークマンショー(伊武雅刀、小林克也、桑原茂一)のアルバムも担当されていたんですよね。
高橋: 『急いで口で吸え』と『死ぬのは嫌だ、恐い。戦争反対!』という2枚のアルバムについては、お手伝いという感じで、ピンで担当したのは『スネークマンショー海賊版』です。小尾さんが言い出した企画で結局実現はしなかったのですが、コンドームのCMのパロディを入れて、パッケージに似せた薄紫色のカセットを作り、レコード店に専用の自動販売機を置いて売りたい、と本気で考えていました。「スネークマンショーを買いに来たけれど、恥ずかしくて買えない」というくらいの照れを表現できないか、と。結局、営業からNGが出てしまい、コンドームのパッケージに似せた色彩の普通のカセットでの発売となりました。
海賊版は、できるだけチープに作ろうということで、ロックンロールのパロディ曲などは、わざと8チャンネルで録っています。目黒の大鳥神社の横にあったスタジオで、エンジニアの飯尾(芳史)くんとレコーディングしました。伊武さんや克也さんのトークや編集とかは、赤坂にあったコロムビアの2チャンネルのラジオ番組を作るスタジオで録りました。スネークマンショーのラジオ版も、雑誌「ビックリハウス」の企画も、そこで作りました。アルファは、何かを面白がってみんなでやる、という会社でしたね。
「君に、胸キュン。」のPVと、エンタメの現場
──YMOの『浮気なぼくら』の頃は、すべて担当されていたんですか?
高橋: 「君に、胸キュン。」から『浮気なぼくら』まで、あのあたりの担当は僕です。「君に、胸キュン。」のプロモーションビデオは立花ハジメさんが監督で、助監督がいないというので、ハジメさんのご指名で僕がADをやりました。

YMO『君に、胸キュン。』シングル盤
麹町スタジオで撮って、僕が地面いっぱいにジャケットのポスターを手で貼り、上からクレーンカメラで撮る。曲中で幸宏さんの足元のポスターが少しずつ剥がれていくのが映っているんですよ。今も観るたびに申し訳ないと思っています。火山が噴火する場面は、僕が下で扇風機を回して赤い布を吹き上げていました。書き割りの手作業です。1983年、僕はまだ26、7歳でした。
アルバム『サーヴィス』のジャケットは井上嗣也さん。スーパー・エキセントリック・シアター(SET)のコントが曲間に入っていて、アミューズの三宅裕司さん、小倉久寛さんたちと一緒にやりました。

YMO『サーヴィス』(1983)
SETの稽古場に一升瓶を持っていったりしてね。演劇の現場を見られたことが、後に吉田日出子さん(劇団「自由劇場」)のレコードを作るときにも活かせました。
坂本龍一と「白金台の夜」から「教授と呼ぶな」まで
──高橋さんは、坂本龍一さんとは古いお付き合いだったとか。
高橋: 坂本さんと初めて会ったのは、アルファに入る前──白金台の「スカラムッシュ」という小さな飲み屋でした。78、9年頃でしょうか。当時は一般人として、YMOの坂本さんと何度かお酒を飲んでいたんです。あるときの深夜に僕のガールフレンドを坂本さんが「送っていくよ」と言われ、とても心配したのですが、帰宅した彼女から「とても紳士だったよ」と連絡が来て、彼女は自分の手帳の表紙に「坂本龍ノ介」というサインをもらっていましたよ。
80年にアルファに入って、スタジオでプロフェット5を弾きながらレコーディングしている坂本さんのところに、飲み屋のノリで「教授、教授」と声をかけたら「もう教授と呼ぶな、坂本さんと呼べ」と。それ以来ずっと坂本さんと呼んでいました。もう会えなくなってしまったので「教授と呼んでもいいですか」という許可をもう得られない。だから今でも、坂本さんと呼ぶしかないのが悲しいですね。
濃くお付き合いしたのは『浮気なぼくら』の頃までで、『戦場のメリークリスマス』の頃から坂本さんは撮影やアオイスタジオに入りっぱなしであまり会えなくなりました。最後に直接ご一緒したのは、僕がアルファを辞めて立ち上げた音楽映像制作会社で制作した「業界くん物語」という映像作品に出演してもらったときです。カメラ量販店のCMのパロディで、架空のカメラ店「カメラのハニワ屋」を宣伝するという役を、格安のギャラで快く引き受けてくれました。
──録音の現場でも、印象的なことがあったんですよね。
高橋: 弦(ストリングス)の入った曲を、銀座・音響ハウスの一番大きいスタジオで録ったときのことですね。坂本さんがなかなか来ないので、先に弦の方々と練習を始めたのですが、当時の僕は「ロックあがり」と見られていて、クラシックの方々の扱いはとても冷たかった。音もゆるい。ところが2、3時間遅れて坂本さんが来た途端、「何やってるの?」と少し不機嫌になりながら指揮を執ると、弦の音がまるで違うんです。緊張が音に乗るというのは、ああいうことなのかと。さすが藝大卒だと驚きました。
とにかく完璧なものを完成させようとする。今でも彼らの楽曲が聴けるのは、そういうことだと思います。そうした時間や予算を許した村井さんもすごい。普通のサラリーマン社長なら「やめろ」と言うところを、本人たちの才能を信用していたんですね。
組織の変化──制作から宣伝へ、村井邦彦社長の退社
── 高橋さんは、その後、制作から宣伝に移られた。
高橋: YMOの「過激な淑女」「以心電心」あたりの頃、村井さんに言われて制作から動くんです。アルファで机に向かって仕事をしていたら、私の背後に村井さんが来て、私の肩をトントンして「これからのミュージックマンは制作だけでは足りない。宣伝や営業も見てみろ。辞令を出しておいたから」と。いきなりその時から宣伝に異動になりました。やりかけの制作も残っているので、何ヶ月かは制作・宣伝・営業がぐちゃぐちゃに混ざっていた。
ところが、その数ヶ月後に村井さんご自身がアルファを辞めてしまったんです。宣伝では、ラジオ局やテレビ局を担当していた千装さんから媒体を引き継ぎました。逆に、千装さんは入れ替わりに制作へ移ったんですよね。
── アルファの制作部は、二つに分かれていたそうですね。
高橋: 有賀さんチームの「アルファ1課」と、僕らの「アルファ2課」です。1課は、ユーミンからハイ・ファイ・セット、サーカス、ブレッド&バターへと続く「白玉(全音符)コーラス」の流れ。2課が、YMOや¥ENレーベルなど。同じフロアにいながら、やっていることがまるで違う。僕はずっと2課育ちで、村井さんがいなくなってからは、その垣根がなくなっていきました。
千装:村井さんからすれば、吉田美奈子、ユーミン、サーカス、初期に立ち上げたニューミュージックのラインが柱と考えていたのではないでしょうか。ところが、別に制作したYMOが川添さんと組んで海外含め成功したのち、さらにご自身でウイングを広げた。1983年YMO散開まえの1982年、細野晴臣、高橋幸宏の¥ENレーベル設立のジャッジを下したのが村井さんでした。それに加えて、佐藤博さんが進出したアルファ・アメリカという「三つ目」の流れもありましたね。いやあ普通なら絶対できない。凄い事を連続で決断、実行されていました。
カシオペアとサンディー&ザ・サンセッツ、海を渡った音
──カシオペアには、お二人とも関わられたとか。
千装:カシオペアは、高橋さんが引き継ぐより前に、宮住さんのディレクターアシスタントが長く、のちに彼が退社したあと少しの期間ディレクターでした。しかし私に技量がなく、うまくいかず、挫折感もあります。数字は、高橋さんが担当したのちについてきた記憶があります。
高橋:千装さんが上司とモメてカシオペアを外され、僕が引き継いだのが85年です。実は僕はずっと「カシオペアをやりたい」と言っていたんです。桜井(哲夫)や神保(彰)とは学生の頃から仲が良くて。音楽性うんぬんより、人の縁ですね。YMOの頃から「レコーディングディレクターはいらないんじゃないか」と感じていたので、カシオペアではディレクターというより「ヒットメーカーになろう」という気持ちでやっていました。
エドワード・リーマンという社員(81年から86年までインターナショナル・ディレクターとしてアルファに勤務した英国人)が、アルファの僕らのセクション(アルファ2課)にいたんですよ。ケンブリッジ大学を出て、EC(今のEU)本部から出向社員として派遣されてきた人。そのリーマンがカシオペアにヨーロッパでの成功の可能性を感じて、あの『MINT JAMS』を作った。メンバーの顔ではなくイラストのジャケットで、イギリス人が好むメロディラインの曲を彼が選んだ。日本のディレクター陣は反対していましたが、僕は賛成でした。結果として大成功して、僕はワールドツアーにも同行しましたし、その『MINT JAMS』は今では国内外で好評価ですよね。リーマンは最近亡くなりました、残念です。いいやつでしたよ。
同じ頃、僕は戸川純ちゃんも担当していました。「好き好き大好き」をやりながらカシオペアもやる。振れ幅は大きいんですが、音楽で世の中に楽しんでもらうにはどうすればいいか、この才能をどう知らしめるか、というのが僕の仕事だと思っていたので、そこは一貫しているんです。
──サンディー&ザ・サンセッツも、海外を視野に入れていたんですよね。
高橋: ええ。『HEAT SCALE』というアルバムは、まだイビザ島が今のようになる前の滞在型レコーディングスタジオがある音楽制作島みたいなところで、小尾さんと細野さんが行って録ったもので、81年です。リーマンが「サンセッツは可能性がある」と言って、後にオーストラリアへ——INXS(インエクセス)の前座のような形でツアーに行きました。イギリス進出の話にもなって、私は一緒に山中湖か河口湖で合宿もしたのですが、当時はネットもないので、イギリスでやるには現地に住まなければならなかったんです。そのハードルが高かったのか、メンバーの中でも「行く・行かない」がまとまらず、結局頓挫しました。リーマンも僕も、少し落胆していましたね。
日向敏文と「東京ラブストーリー」そして「詩人の家」
──高橋さんは、アルファで日向敏文さんのアルバムも手がけられていましたよね。
高橋:日向敏文との縁は、カシオペアの面々と同じく学生時代にさかのぼります。バンド「インテリア」のリーダーであり友人の日向大介のお兄さんが音楽を作っているというので聴かせてもらったのが日向敏文でした。インストですし、「日向」という名前も読みづらい。この音楽(アーティスト)をヒットさせるためには、レコード店の棚に「日向敏文」として区分してもらえるようにするには、最低でもアルバム3枚は必要だ──だから3年は売れる売れない関係なく作ろう、と思ったんです。
大介と私の同級生だった永山耕三がフジテレビのドラマ制作にいて「日向にフジテレビのドラマの劇伴をやらせてもらえないか?」と永山に会う度にお願いをしていましたが「実績がないと難しい」と言われていたので、私はテレビ各局・音効さんを中心にプロモーションをして、TBSの「男女七人夏物語」「〜冬物語」というドラマの中で「異国の女たち」という曲が使われました。
「実績が出来たんだから、フジのドラマの劇伴をやらせてくれ」と3年越しでプロモーションして、実ったのが織田裕二主演の「東京ラブストーリー」です。その頃、僕はもうアルファを辞めて音楽映像制作会社をやりつつ音楽アーティストの事務所もやっていて、日向敏文も一時所属していました。
それから『詩人の家』というアルバムも、村井さんがらみの面白い企画でしたね。1985年のつくば科学万博・ダイエー館「詩人の家」という企画のための音楽で、アルファを辞めた村井さんがジョー・ジャクソンを日本に呼んで一緒に一曲ずつ作曲し、杉並公会堂で東京交響楽団と収録してアルファから発売したアルバムです。戸川純ちゃんが朗読、その伴奏で日向敏文も参加しています。
川添象郎の「現場力」と、村井邦彦の「語学力」
──アルファもう一人の立役者・川添さんは、どういう方だったのでしょうか。
千装:先ほどもふれましたが、川添さんは、海外ツアーの肝というかすべてでした。基本短い時間でしたが(もろもろ衝撃的事件あり)、細野さんの事務所で、川添さんが当時作ったツアーの楽器及びセッティング図、カーゴの運搬機材リストが現存していて拝見しました。これがめちゃくちゃ几帳面でドラムのセット、マイクをどこに立てるか、細かいことまで全部書いてある。川添さんはラスベガスでのショーをShirley MacLaineの旦那について演出補佐を経験、ご自身もフラメンコギタリストの一人者(アルファ卒業後、私の会社のイベントに出演して演奏してもらいました)だったので、照明や舞台のことも全部分かる。向こうとのやり取りもできる。だから、ヨーロッパツアーもアメリカツアーも、川添さんでなければできなかったと思いますよ。
村井さんはひとあたりよく誰も拒否しないスタイル。カリスマでありながらもとても話しやすい。それに比べると、川添さんは入り口が断定的で、はじめはちょっと怖いスタイル。「あ、そうなの? 僕、知らない、教えて教えて」というのが村井さん。「これをやろう」と決めたら一気に動くのが川添さん。僭越ですが素晴らしいコンビでした。あのお二人がアルファだったと、つくづく思います。
MIDEM(ミデム、毎年1月フランスのカンヌで開催される世界最大規模の国際音楽産業見本市)のような国際見本市に行くと、外国語を通訳を介せず普通に話せる音楽業界人は村井さんと都倉俊一さんぐらいしかいなかったと聞きました。都倉さんはドイツ育ちでドイツ語が完璧、英語もできる。村井さんはフランス語も英語もできる。筒美京平先生にアルファ卒業後に仕事を依頼した時の逸話がおもしろい。ある時、アルファレコード前の村井事務所が三田の東急アパートにあったときに伺ったら、奥でずっとフランス語で話している。誰と話していたの?と京平先生が聞いたら、ミシェル・ルグラン(映画『シェルブールの雨傘』主題歌を手がけた世界的なフランス人作曲家)だと。彼のインテリジェンスは素晴らしいなと思ったそうです。その話を聞いて、なんだか嬉しかったですね。
有賀恒夫の「アレンジ」、ミッキー・カーチスの「録音」
──アルファのサウンドを支えた、有賀恒夫さんのアレンジについてもお伺いできますか?
千装:有賀さんはすごい!松任谷“マンタ”正隆さんとアレンジの話をしているときでも「マンタ、これはコードが馴染まないから、こっちの方がいい」と。サーカスのあるヒット曲では、上がってきたAメロがあまりにひどいというので「全部書き直しだ」と。何度やってもダメで、作曲家が「もう書けません」と言ったら「こんなのしか書けないなら、この仕事を辞めろ」と言ったそうです。また、作家がこのメロが良いです、と言ってきたので「決めるのは僕だよ!」と(有名なヒット作家に、2026年7月の会食の時にも話していました)。
有賀さんがディレクションした作品は大好きでした。ピッチもコーラスも、我々には絶対に真似できないディレクションの完成度を持っている。ユーミンのいわゆる「ちりめんビブラート」も、有賀さんが方向性を示したようで、だから今も評価が高い。
高橋: そのやり方の対極にいたのがミッキー・カーチスさんです。「さあ、キーはB♭、あとはよろしく一発!」というような作り込まない録り方が素晴らしいんです。キャロルやガロ、外道とかは特に名作ですよね、その時代を表す。
千装: 村井さん・川添さんは、その両方のやり方を呑み込んだ上で「よし、ガーンといこう」とやっていた。そこがアルファのすごいところだと思います。
YMO散開後──「被害者の会」と自虐的に呼んだアーカイブの日々
──千装さんは、YMO解散後の音源を世に出し続けた人でもあります。
千装: 村井さんが退任し、細野さんがアルファから移籍された後、YMOのリミックス盤の企画をたくさんやらせてもらいました。はじめは細野さんに渋い顔されました。しかし『HI-TEC / NO CRIME』、『フェイカーホリック』、『TECHO BIBLE』他かなりのタイトルを発売し(くすぶっていたYMO熱 By HOSONO)、スピン(SPIN)というレーベルを作り、イギリスのOn-USOUNDと契約して邦楽制作セクションで、洋楽、邦楽の制作を本格的にスタートしました。
『フェイカーホリック』というYMOのライブ盤(第一回ワールドツアー)は、YMOが83年に散開していますから、未発表曲やリミックスも含めて世に出していこうと、二枚組でヨーロッパ版とアメリカ版をセットにして出しました。その前に『HI-TEC / NO CRIME』というリミックス盤も出しています。ボム・ザ・ベース、ジ・オーブ、808ステイトといった、当時ロンドンで人気のテクノ系の人たちにリミックスを依頼しました。
当時ロンドンによく行って、現地のDJと話しながらスタジオを回りました。アンディ・ウォーホルが一枚の写真を色違いの作品にしていくように、ベースとドラムを抜いて別の作品にしてしまうという。いろいろなアーティストのリミックスを5、60作は作ったと思います。

Alfaの90年代リミックスシリーズ(当時の雑誌広告より)
数量限定で出したYMOのボックスセット『TECHO BIBLE』は、私の責任でやりました。細野さんには大反対され、なじまないタイトルが二つ並んでいる、やるならSAMPLEが良いと。REC中のLDKスタジオでMTGしたのち細野さんがご立腹、エンジニアの小池光夫さんから「千装くんRECに支障きたすから来ないでくれる!」とも。デザイン科の責任者、治外法権の津久井利尚さんデザインのジャケットで、豪華な造本のブックレットには、BUCK-TICKの今井寿さん、電気グルーヴのお二人など、いわゆる”YMOチルドレン”のコメントを集めました。これも自分で頼みに走った記憶があります。91、2年頃ですね。
YMOのテレビ出演映像を集めた『TV YMO』というVHSも出しました。CX「THE MANZAI」での漫才(トリオ ザ テクノ)、「オレたちひょうきん族」「夜のヒットスタジオ」など、テレビでの演奏シーンは本当に貴重でした。
NHKの倉庫には“外タレ”のライブのマルチテープがたくさん眠っていて、当時のNHK後藤部長の協力で数名のチームで探しに行き、YMOのマルチテープを発見しました。ブライアン・イーノにミックスを依頼し、武道館ライブのミックス盤も発売しました。
この頃は、上から「とにかく何か出せ」と言われていて、残っている先輩もいませんでしたから、絞り出すように企画盤を出していましたね。今思えば、これだけ貴重なものをまとめて世に出せたのは、本当にありがたいことです。
──海外で発売されたリミックス盤は、最初から世界戦略のつもりで出したのでしょうか?
千装:戦略というよりUKのDJ、ミュージシャン、さらにはメジャーレコードメーカーにはYMOチルドレン多数でしたから。リミックスの候補、紹介も含めてロンドン市内、郊外のスタジオ、事務所を回った時に肌で感じました。YMOのリミックスがしたい、またレーベルからは音源と「そのDJ、プロデューサーがするなら発売したい」と制作依頼しているさなかにオファーがありました。その際にアドバンス(前払い金)の交渉もしていました。
余談ですが、当時の契約は海外からの原盤印税徴収は日本から弁護士を派遣し会計チェックするような契約書。よって数千万円という金額を支払う口約束で。一方で、発売した翌日にはもうブートレグ(海賊版)が出るとJVCロンドン在住支社長が教えてくれました。
国内でも、DJ福富幸宏くんとエンジニアの寺田康彦さんに「TFプロダクション」というユニットを組んでもらってリミックス盤を出しました。寺田さんがクリエイター気質の人で「踊るポンポコリン」のハウスミックスのデモを作ってきて、面白いから出すことにしました。これが朝のワイドショーで取り上げられて新聞にも載り、2万枚くらい売れてしまった。当然、関係各所からクレームが来ましてね。橋本ミユキの44MAGNUMプロデュース盤『One Night Angel』を私がディレクターとして手がけていた縁で、ビーイングの創始業者・長戸大幸社長と懇意でしたから、なんとか事なきを得ました。音楽業界の人脈に救われた一件です。
才能を呼ぶ縁──吉野千代乃、菅野よう子
──制作では、吉野千代乃さんのアルバムも手がけられていましたね。
千装: 吉野千代乃さんのアルバムは、佐藤博さんにサウンドプロデュースで協力してもらい、三枚ほど作りました。滝沢洋一さんの作曲した曲、松井五郎さんの詞、中村哲さんのアレンジもありましたね。吉野さんはヤマハ出身で、「悲しみのタペストリー」を持って世に出た、歌のとても上手い方で、オリコンでも上位まで行きました。

吉野千代乃『スロー・ダンス』(1986)
吉野さんのアルバムには、当時まだ早稲田の学生だった菅野よう子さんが参加しています。吉野さんのライブトラ(出演できなくなったミュージシャンの代わりに来た)菅野ようこさんのあまりのすごいプレイに驚いて、佐藤博さんに紹介しました。そこから佐藤さんがいろいろと仕事をつなげていきました。リズム隊は、佐藤さんが連れてきた青山純、伊藤広規チーム(山下達郎リズム隊)が参加。まさに人が人を呼んでくる──吉野千代乃さんのボーカルがなければ菅野よう子さんも来なかったし、私が彼女を佐藤さんに紹介していなければ、その後の縁もなかった。
私はアルファを辞める前から、菅野よう子さんとは当時の光栄「蒼き狼と白き狼」「信長の野望」「三國志」のゲーム音楽&CD制作もJOINTさせて頂きました。アルファに在籍しながら、独立を前提に自分の会社を作って、このような外部から請ける仕事をしていました(時効かと。録音部の責任者だった吉澤さんが鷹揚な方で、外から入るスタジオの売り上げに理解を示してくださり、アルファのAスタやLDKを使わせて頂きました)。それら光栄の音楽作品は菅野よう子さんの作曲編曲。ゲーム音楽の80年代初期は付録のカセット<ゲームソフト88、98シリーズ>、その後ゲーム音楽を拡大解釈したオーケストラバージョンのCDをRECしていました。彼女がどんどん有名に、巨匠になっていったのはうれしい限りです(天皇陛下の就任式の音楽も彼女の作品でしたね! 嵐がボーカル参加、震えました!)。
それぞれの「その後」、そして「音楽を残す」ということ
──お二人とも、やがてアルファを離れ、ご自身の道へ進まれましたが、お辞めになった頃のことを教えてください。
高橋: アルファを辞めたのは1986年5月です。戸川純ちゃんの「遅咲きガール」のプロモーションビデオを中野裕之監督が撮って、その縁から中野と一緒に、タイレル・コーポレーションという音楽映像制作会社を作りました。映像制作と並行して吉田日出子さんのアルバムを作ったり、日向敏文・小室哲哉のマネージメントやtrfをデビューさせたりしているうちに「やはり僕は才能あるアーティストの音楽を作ってヒットさせよう」と考えて、映像制作会社を畳んでソニー・ミュージックエンタテインメントに入社しました。
千装:私の場合は、在籍中に始めた仕事が、そのまま今の自分の会社につながっています。しかし退職、独立直後はどうしたら作品アーティストを世に出せるか?会社を軌道に乗せられるか?と、もがいていました。当時ビクター音産の業界先輩(河津睦彦氏、根岸常務)に拾われて会社としてプロデュース契約していただき、ビクター音産、アミューズの新人開発、プロデュースをさせていただきました(カスケード、サーフコースターズ、ブランニューモンキーズ、ZINGI)。1992年に現在の有限会社ドマーニを設立しました、現在36期目です。
2006年から2014年までポニーキャニオンミュージックに、アーティスト在籍(これも当時、高橋理さんがソニーから制作部長で在席していた頃の紹介でした。感謝!)。
2014年にドマーニに復帰し、コーエーテクモゲームス(光栄から社名変更)のキャラクターソングを作って、パシフィコ横浜や神奈川県民ホールでコンサートをプロデュースしています。ここ3年ほどは、株式会社colyというアプリゲーム会社で、「ブレイクマイケース」というゲーム・アプリのキャラクターの「パーソナルソング」声優(キャスト)20名をプロデュースしています。また、そのコンテンツのコンサートも。
先日、堀江瞬さんという若いキャストの方が、戸川純、コシミハルが好きと聞いて驚きました。彼が生まれてもいない時代の、戸川純やコシミハル、ずいぶんマニアック?なアルファの音源をご存じでした。高橋さん、篠崎さんが制作していた¥ENレーベルファン。自宅にお招きしてアナログ盤を何枚か差し上げたら、たいそう喜んでくれた。アルファレコードが、この世代にまでつながっていました。本当に「音楽の縁」というものは面白いですね。
村井邦彦が顔と名前を覚えていた「最後の世代」
──では最後に、アルファ時代を振り返ってみての感想はいかがですか?
高橋:村井さんが顔と名前を覚えていたのは、僕らの世代あたりまでだと思います。その後入社した社員はなかなか覚えてもらえなかったと思います。僕らより年下の社員が村井さんとエレベーターで一緒になったら「何階に行きますか」と聞かれたそうですよ(笑)。自分の会社の社員を、来客の人だと思ったんだって。そういう誰にでも優しく接する社長さんでしたね。でも仕事、特に作品のクオリティーに関しては厳しくて、僕は時々指摘されたり怒られたりもしました。
川添さんには、一時期私が仕事の量と内容(レコード会社・マネージメント・イベンター的業務等々)が多くなり過ぎてしまって、ふててしまった時期があったのですが、それを見た川添さんから「ここ(ALFA)を何処だと思っているんだ!普通のレコード会社じゃないんだ!音楽業界の梁山泊にいると思って行動しろ!」と気合いを入れられました。
そのおかげでかもしれませんが、当時、事務所に所属していないアーティストが多かったので「僕らがレコード会社の仕事はもとより、マネージメント業務でも何でもガンガンやってしまおう」という気概でやり、立ち直ることが出来ました。(吉田)美奈子さんも立花ハジメさんも、戸川純ちゃんも、日向敏文も…。
本当に凝縮した6・7年間でした。
千装:村井さんと川添さん──初期のアルファはあのお二人がいたからこそできた、ということばかりです。普通のレコード会社では、まずやらない(1985年に村井さんが退社されたあと、当時から支えられていた後の故 金子社長の時代はかなり経常の良い、また違う社風であった事も忘れられません)。
いずれにしろ現場で仕事をできたことは本当に幸運でした。今も感謝しています。
──アルファの中にいて、現場も広報にも直接かかわった方のお話を伺える機会は、本当に少ないので大変勉強になりました。本日は貴重なお話をありがとうございました。

【取材を終えて】
私がYMOの音楽と出会ったのは中学3年生のとき。散開から7年が過ぎており、時代は「CD全盛期」になっていました。そんなとき、YMOの音楽にラジオを通じて出会ってしまい、そこから音楽の沼にハマっていったのです。
まだ中学生なのに、時代遅れになっていたアナログレコードを神保町やレコード市で漁り、YMO関連の雑誌や書籍を探して読み、企画盤のCDなども少ないお小遣いから出して買い集めました。
高校二年のとき、CX系「カルトQ」というクイズ番組の「YMO回」にハガキで応募し、曙橋のフジテレビまで予選を受けに行ったのも良い思い出です。
今思えば、アルファとの縁は、幼少期に母親が実家でかけていた赤い鳥、Hi-Fi Set、荒井由実やサーカスのときから繋がっていました。
そんな素敵な音楽体験を与えてくれたアルファレコードの黎明期のお話がうかがえて、私は「音楽の縁」を深く感じずにはいられませんでした。
今となっては、私が作曲家・滝沢洋一さんの人生と音楽活動を取材することになったのも「必然」だったのではないかと思います。みなさまのご縁に深く感謝を申し上げます。(都鳥)
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