日本の「蚊帳」が世界を救った。米国の横ヤリにもめげぬ日本企業

 

「あなたがた日本人ならみんな知っているかと思った」

ここまで来るまでには、住友化学の中で多くの人々による十数年にわたる悪戦苦闘があった。発端は、かつて住友化学が世界のベストセラーとして売っていたマラリア対策の殺虫剤スミオスチンが徐々に売り上げを減らしていたことだった。

日本では戦後の早い時期に、下水溝整備など蚊の発生源対策と殺虫剤散布により、マラリア撲滅に成功していた。しかし広大なアフリカ大陸で発生源対策も不十分なまま、殺虫剤を撒き続けていて、いつかはマラリア撲滅に成功するのだろうか? そんな疑問が先進国の政府援助を減らしつつあった

海外農薬事業を担当していた川崎秀二は、この苦境を乗り切る術(すべ)はないかと、旧知の世界の熱帯医学の権威的存在である英国の医学研究所のカーチス博士に相談した。博士の答えに川崎は驚いた。

あなたがた日本人ならみんな知っているかと思った。今、注目されているのは蚊帳(かや)を使ったマラリア対策ですよ。
(『日本人ビジネスマン、アフリカで蚊帳を売る:なぜ、日本企業の防虫蚊帳がケニアでトップシェアをとれたのか?』浅枝敏行 著/東洋経済新報社)

日本人の伝統的な生活の智恵である蚊帳が、マラリア対策として注目されているという。しかも、博士はその蚊帳に殺虫剤を染みこませておけば、蚊の絶対数を減らしていける、という。

川崎の下で研究に従事していた伊藤高明も、アメリカの国際開発庁が殺虫剤に浸した蚊帳を使って、住民参加の実験を始めている、という情報をつかんでいた。しかし、その蚊帳は単に殺虫剤の溶液に浸しただけで、半年ごとにそれを繰り返す「再処理」をしなければならない。

途上国の普通の人が、殺虫剤の液で蚊帳を処理すること自体が、常識的に考えてあり得ない行動やな。本気なのか、このやり方は。

分子レベルの設計

伊藤は樹脂の中に殺虫剤を練り込んですこしづつ滲み出てくるようにすれば、「再処理」などしなくとも長く使える蚊帳が作れるのでは、と思いついた。そこで樹脂や製造工程に詳しい奥野武に相談した。奥野は初めは、そんなものは商売にはならない、と乗り気ではなかったが、熱心な伊藤に根負けして開発を始めた。

奥野は、繊維の中に練り込まれた殺虫剤の分子がどのような温度でどう動くのかまで検討して、樹脂の仕様や製造方法を検討した。その結果、何年も殺虫効果が続く樹脂を作ることができた。

また、伊藤は、暑いアフリカで蚊帳の中を少しでも涼しくするための編み目の大きさにもこだわった。蚊は編み目を通過しようとする時、羽を広げた状態で通ろうとする事を発見し、マラリアを媒介するハマダラカは日本の蚊よりも一回り大きい事から、編み目を少し大きくする事とした。

こうしてできあがった蚊帳を外務省のODA(政府開発援助)担当者やJICA(国際協力機構)に説明したが、その良さは理解が難しく、反応は鈍かった。川崎は現地でこの蚊帳の効果を実証することが必要と考え、「小規模援助」に着目した。各途上国の日本大使が少額の人道支援を大使権限で実施できるという仕組みである。

この仕組みを使って、5年ほどの間に43カ国にわたって、数十帳から時には千張もの蚊帳が現地で使われるようになった。マラリアの院内感染が明らかに減少した、という報告も6カ国からあがってきた。

アメリカ国際開発庁からのクレーム

しかし、思わぬ所から横やりが入った。マラリア対策に取り組んでいるアメリカの国際開発庁から、1990年にクレームが届いたのである。

自分たちがせっかく殺虫剤を「含浸するタイプの蚊帳」を広め、ユーザーである住民自身での「再処理」習慣を根付かせるための啓蒙活動を行っている横で、「再処理をしなくてよい」という製品を展開するとは、どういうことなのか。マラリア対策プログラムに対して、「マイナスの影響を与える製品」の展開はやめてほしい。
(同上)

国際開発庁が広めようとしていた蚊帳は、単に殺虫剤の溶液に漬けて、繊維の表面に殺虫剤が付着しているだけの従来型のものだ。半年もすると殺虫剤が消え失せて、効果もなくなってしまう。そのために、半年ごとに殺虫剤の溶液に含浸するという「再処理」が必要だった。それをいかにアフリカの住民にさせるか、がネックとなっていた。

マラリア退治を真の目的としていれば、再処理を必要としない住友化学のオリセットネットの登場は両手をあげて歓迎すべきことだった。しかし、国際開発庁の担当者たちは、そんな事をしたら、自分たちが今まで進めてきた対策を否定することになる、と考えたのだろう。

いかにも唯我独尊、不合理な主張だが、米国の国際開発庁は世界のマラリア対策の主導権を握っていた。その影響力で、各国からの注文は減っていった。今まで事業を担ってきた川崎も奥野も他の部署への異動を命ぜられたオリセットネットの先行きは真っ暗になった。

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