日本の「蚊帳」が世界を救った。米国の横ヤリにもめげぬ日本企業

 

「この申請は、スミトモからのあの蚊帳か」

一人、オリセットネット事業に残った伊藤は、それでもあきらめなかった。今までの各地での適用成果をレポートにまとめて、WHO(世界保健機構)の認定を受ければ道は開けるかもしれない、と考えた。認定には3年の年月と数百万円の費用がかかる。伊藤は新しい上司を説得して、なんとか申請の許可を貰った。

その申請を受け取ったWHOの職員、ピエール・ギエ博士はルワンダ人の学生スタッフを呼んで聞いた。「この申請は、スミトモからのあの蚊帳か」「ドクター・ピエール。間違いありませんね。日本のスミトモの、オリセットネットという蚊帳です」

ピエールはフランスの開発研究局の出身で、以前からアフリカの現地でマラリア対策活動について研究を積み重ねていた。その学生スタッフが、ある日、持ち帰った蚊帳を見て、「これは、珍しい製品があったものだね」とピエールは感心した。それは川崎の時代に少額無償援助で各地にばら撒いたオリセット蚊帳のひとつだった。

マラリア対策の現地での実態を目の当たりにしていたピエールは、住民に従来型の蚊帳を再処理させることがその普及の妨げになっていることを理解していたのである。

その時の事を思い出しながら、ピエールは思った。

そうか。あの蚊帳がついにWHOに認定の申請をよこしてきたというわけか。今の動きからすると、これは大きな潮目の変化になり得るかもしれない。
(同上)

WHOの前代未聞の推奨と大量注文

2001年春、ピエールから伊藤にメールが入った。オリセットの件で話がしたい、ということだった。来日したピエールはフランス語訛りの英語で伊藤に言った。

WHOは今、マラリア対策蚊帳について、大きな方向転換をしようとしています。これまでに再処理を行わせることで、ユーザー住民の啓蒙を図ることを目指してきました。だが今、ようやく、そのプロセスを経ていては、普及が進まないということが、合意となりつつあります。

 

WHOはそう遠くない将来、長期残効蚊帳、つまり再処理をしなくても、長期間にわたって殺虫効果が残るものを推奨する方向に舵を切り替えるでしょう。そのときに、あなたがたのオリセットの蚊帳は、現時点で最も性能面で優れている蚊帳であると理解せざるを得ません。
(同上)

同年10月、WHOは長期残効蚊帳」という新しいカテゴリーを創設し、その第一号認可品としてオリセットを推奨した。WHOが新カテゴリーまで創設して推奨するのは前代未聞のことだった。同時に「フィールド評価用」として、7万張りもの発注をしてきた。今までの膠着在庫が一掃されるだけでなく、大至急、増産体制を作らなければならない。

伊藤は上司に掛け合って奥野を戻して貰った。奥野は事態の急進展に驚いたが、大車輪で動いて、年間10万張りの生産体制を整えた

「WHOが無償でうちの技術が欲しいといっていると?」

WHOはさらにオリセットの急速な普及を促進するために、矢継ぎ早に手を打ってきた。

すばらしい技術であるオリセットの技術を、アフリカで現地生産できるよう、できれば無償で蚊帳生産技術を供与してほしい。それにより生産規模を拡大し、安く大量の蚊帳を供給できる体制を構築したい。
(同上)

WHOは「安く大量の蚊帳を供給できる体制」のメンバーも揃えていた。住友化学が殺虫剤、エクソンモービルがポリエチレン樹脂を提供し、技術供与されたアフリカ現地の製造委託先が蚊帳を製造する。それをユニセフが買い上げ、PSI(ポピュレーション・サービス・インターナショナル)がマラリアの感染地域に配布・啓蒙を行う、という体制である。

WHOが無償でうちの技術が欲しいといっていると?」と、社長の米倉弘昌は上申書に目を留めた。技術で商売をしてきた住友化学がタダで外部に技術を出すなど前代未聞だった。

しかし、と米倉は考えた。技術料をタダにしても、その分、製品価格が下がり、販売量が増えれば、殺虫剤の販売だけでも利益は確保できるだろう。なにより、それだけ多くのマラリア患者を減らせるし現地生産によって現地の雇用も生み出せる

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