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安倍政権の背後にある「日本会議」の知られざる実態と自民党=高島康司

今回のテーマは「日本会議」と、この組織が象徴する現代右翼の運動についてである。「日本会議」はイギリスやフランスなどの海外のメディアでも紹介され、国粋主義の極右組織ではないかと批判されている。

「日本会議」は、1997年に「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」とが統合して結成された組織で、その目的は、憲法改正によって戦前のような「天皇制国家」を再興することである。

「日本会議」には神社本庁、解脱会、国柱会、霊友会、崇教真光、モラロジー研究所、倫理研究所、キリストの幕屋、仏所護念会、念法真教、新生佛教教団、オイスカ・インターナショナル、三五教等、宗教団体や宗教系の財団法人が多く参加していることから、「日本会議」は「カルト」として紹介されることが多い。

安倍政権の閣僚の多くが「日本会議」に参加しているので、「安倍政権」はカルトに乗っ取られたとする見方も強い。だが、それだけでは見えない現実がある。(未来を見る! 『ヤスの備忘録』連動メルマガ・高島康司)

小泉改革で、自民党全体が「日本会議」に吸収されてしまった――

「日本会議」カルト集団説では見えない現実

日本会議」を「カルト」とする見方は、明らかに違憲の集団的自衛権の可決を焦り、報道管制を強化して国民を管理するいまの安倍政権に強い違和感を覚えている多くの国民から支持されている。この違和感は筆者も共有しているので、十分によく分かる。

「カルト」と聞くと「オウム真理教」をイメージすると思う。だとするなら、「日本会議」を叩くためには、「オウム真理教」と同じような方法で壊滅に追い込めばよいということになる。

だが、「日本会議」は「カルト」であり、それに安倍政権が乗っ取られたとする見方では見えてこない現実が存在する。そしてこの現実をいまのうちにしっかりと認識しておかないと、我々ははるかに危険な現実に将来向き合わざるを得ない状況になる可能性がでてくる。

「日本会議」はプラットフォーム

一般の認識とは大きく異なり、「日本会議」とは最近出て来た極右組織ではない。「日本会議」が結成されたのは1997年だが、この組織は日本のあらゆる右翼団体が結集する巨大なプラットフォームのようなものである。それは単一の組織として見るよりも、独自に活動しているさまざまな右翼組織の象徴であり、ハブであると見た方がよい組織だ。

「日本会議」そのものは1997年に結成されたが、これに参加している右翼組織ははるかに長い歴史を持つ。戦後70年の日本の裏面史を代表するような存在なのだ。

まったく知られていない戦後右翼の歴史

ところで、ほとんど知られてないことだが、戦後日本の右翼の歴史は古い。

周知のように、1945年8月15日、日本はポツダム宣言の受諾をもって連合国に無条件降伏した。日本を占領したGHQは日本の統治を円滑に行うために天皇制を温存してこれを利用することを考え、以下の3つに基づく日本の国際社会復帰のシナリオの受け入れを迫った。

  1. 戦前の日本の戦争はアジアに対する侵略戦争である
  2. これを主導したのは軍部とこれに連なる一部の政治家である
  3. 天皇も日本国民も軍部が引き起こした戦争の被害者である

この3つのシナリオで、天皇と日本国民は戦争責任から赦免された。そして極東軍事裁判で具体的な判決として踏み固められ、サンフランシスコ講和条約の基本的な認識となった。これに日本は調印することで国際社会に主権国家として復帰した。

GHQの要請で作成された現行の日本国憲法は、「象徴天皇制」の規定と戦争と軍隊を永久に放棄した9条を含むことによって、日本が二度と戦争を起こさない国際的な保証として機能した。

これが戦後の日本の出発点となった取り決めであった。この取り決めのパッケージは当初は驚きをもって受け取られたものの、時間が立つにつれ多くの日本国民によっても自然に受け入れられ、現在に至っている。

一方、この戦後の取り決めを拒絶し、自主憲法の制定による「天皇制国家」復興を目指す運動が戦後すぐに始まった。これが戦後日本の右翼運動である。憲法9条を守ることを骨子とした左翼系やリベラル系の運動の歴史はよく記録され、研究されているものの、右翼の運動史に関してはほとんど研究も報道されていないのが現状だ。という意味では、右翼の歴史は70年の戦後史の裏面史であると言うことができる。

Next: 戦後すぐに運動を開始した「神社本庁」/岸政権と右翼集団の暴力団化



戦後すぐに運動を開始した「神社本庁」

ちなみに戦前には軍部と協力し、軍部の国粋主義的な政策の支援をしていた多くの草の根右翼の組織は存在していた。しかし、こうした組織の中心的な教義は「天皇崇拝」であったため、昭和天皇の「人間宣言」を機に信仰の根拠をなくし、解体した。

しかし1946年、天皇の「人間宣言」と前後して、戦後日本の出発点となった取り決めを拒絶し、自主憲法制定による「天皇制国家」の復興を目標とする組織が立ち上がった。それがいま「日本会議」の中核となっている宗教法人「神社本庁」である。いま日本では「神社本庁」も「天皇制国家」の復活を目指す「カルト」として解説されているので、「神社本庁」が敗戦直後の1946年から活動していることを知って驚くかもしれない。

しかし、1940年代と50年代は日本では左翼運動が席巻しており、こうした右翼の運動は極めて低調であった。見向きもされないアングラの政治組織としてとどまった。

岸政権と右翼集団の暴力団化

そのような地下に潜ったアングラ運動としての右翼に大きな転換になったのが、1960年の「安保反対闘争」である。この運動をきっかけに、右翼は政治との明確なかかわりを持つようになる。

いまの集団的自衛権の強行採決と同じように、1960年、安倍晋三の祖父にあたる岸信介政権は、改定された「日米安保条約」を強行採決しようとしていた。これに抗議した数十万を越えるデモ隊が国会を包囲し、警察部隊と一触即発の状況になっていた。

岸政権は、こうした抗議運動を弾圧するために右翼と暴力団を国会内に入れ、暴力を用いて抗議運動の沈静にあたった。これは逆に大きな抗議を引き起こし、岸政権の退陣を早めたものの、これを機会に右翼と暴力団と自民党との間に強い政治的なパイプができ、自民党がこうした勢力の暴力を権力維持のために利用するようになった。

また右翼のほうも、運動資金確保のために八百屋から政治家まで脅しで「会費」を巻き上げる暴力団と変わらぬ活動をするようになった。これは同じ時期、みかじめ料を徴収するために政治運動であることを口実にしていた暴力団も右翼化していたので、右翼と暴力団が実質的に区別がつかない状況となった。

街宣車で国粋主義とヘイトスピーチを、言論の自由と称して最大ボリュームで垂れ流すいまの街宣車のスタイルは、この時期に出現した。

60年安保の結果と新右翼の出現

周知のように「60年安保闘争」では「日米安保条約」の締結は実現したので、国民の抗議運動は敗北したかのように見える。

しかしながら、実際はかなり違っていた。これまで自民党は「憲法改正」を基本方針としていたが、「60年安保闘争」の激しい抵抗と岸政権の退陣で、「憲法改正」を基本方針から削除し、封印した。さらに、自民党最右翼の代表であった岸信介を政治から実質的に永久追放した。そして次の池田隼人政権は、政治的な対立を避けるため、経済を自民党の基本方針の中心にし、「高度経済成長政策」を立ち上げた。

こうした変化のなかで、右翼の「自主憲法制定による天皇制国家の復興」というスローガンは次第に有名無実化し、ほとんど実体のないものになっていった。そして右翼はさらにぐれん隊のように暴力団化して行った。

このような右翼の堕落した状況を打破し、同じ時期に大学を席巻していた「新左翼」の運動に対抗する目的で新しいタイプの右翼組織が出現した。さまざまな組織があるが、これらは一括して「新右翼」と呼ばれている。

「新右翼」が「旧右翼」と大きく異なる点は、「旧右翼」が戦前からの右翼や特攻の生き残り、また戦前の軍部者の作る組織であったのに対し、「新右翼」の多くが宗教団体を背景にした集団だという事実だ。

Next: 建国記念日の制定と「神社本庁」/「生長の家」と谷口雅春



建国記念日の制定と「神社本庁」

「新右翼」が出現する前に、宗教法人を主体とした政治運動で大きな成功を収めたものがある。それは、1966年の「建国記念日」の法制化である。

周知のように戦前は、元号とともに日本国の公式の年号として「紀元」が使用されていた。「日本書記」の創造神話で日本国を建国したとされる神武天皇から年号を数える方法である。「紀元」は天皇が神武天皇の血統を引き継ぐ「万世一系」の存在であることを強く印象づけるために、戦前の「天皇制国家」によって利用された年号であった。もちろん、神武天皇は神話上のフィクションの存在であり、実在していた証拠は発見されていない。

戦前は、神武天皇が2675年前に即位したとされる2月11日が「紀元節」として国家の祝日となっており、これを記念する国家神道の行事が多く開催されていた。ちょうど紀元2600年にあたる1940年には、ナショナリズムを鼓舞する特に大きな国家的な儀式が開催された。

このような経緯もあって「紀元節」は戦後は廃止されていたが、1960年前後から宗教法人の「神社本庁」を中心に「紀元節」の復活を求める運動が展開された。全国の神社を統括する「神社本庁」の全国組織を使い、「紀元節」復活の一大キャンペーンが実施された。暴力団化した右翼集団とは一線を画した運動となり、1965年には全国598箇所で復活を求める行事が行われた。この全国的なキャンペーンに押される形で政府は「紀元節」を「建国記念日」と名称を変えて法制化し、国民の祝日とした。

これは、宗教法人の右翼組織のよる運動の成功例となった。

「生長の家」と谷口雅春

このような「紀元節」法制化の成功を追い風として出てきたのが「新右翼」である。そうした「新右翼」の集団の母体となった宗教こそ、谷口雅春の主催する「生長の家」であった。

谷口雅春は、太平洋戦争に敗れたのは、迷いと島国根性に凝り固まった「偽の日本」であって、本当の「神洲日本国」は敗れたのではないと主張し、1945年の敗戦という歴史的事実そのものを否定した。

そして、日本国憲法は、GHQが日本を弱体化するために日本に押し付けた無効の憲法であるので、日本国憲法を即時に破棄して明治憲法に基づく「天皇制国家」を復元しなければならないと主張し、「明治憲法復元運動」を起こした。

これを実行するための組織として結成されたのが「日本会議」の前身である「日本を守る会」である。

「新右翼」の中心「日本青年協議会」

このような谷口雅春の右翼思想に結集した学生の集団が、1970年に結成したのが「日本青年協議会」である。もともと「日本青年協議会」は、左翼の全学連によって占拠された長崎大学のキャンパスを奪還するために結成された、「新左翼」の対抗組織であった。

しかしながら、学生運動が退潮した1970年代に入っても、「日本青年協議会」は右翼の政治運動の中心的な主体として活動を展開した。もちろん、これは暴力団化した「旧右翼」とはまったく別物の政治組織である。

元号法制化運動と椛島有三

「日本青年協議会」が一躍注目されることになったのは、「元号法制化運動」であった。いまでは当たり前のように「元号」が使われるが、戦後30年以上にわたって「元号」の使用は法制化されておらず、「西暦」と「元号」のどちらを使うかは使用者の任意に任せれていた。「元号」を日本国の正式な年号の記録の方法として法制化しようとしたのが「元号法制化運動」であった。この運動は「日本青年協議会」が結成される2年前の1968年に「神社本庁」などが中心となって開始されていた。

しかし、「日本青年協議会」がこの運動の中心的な主体として参加するにつれ、運動は大変な勢力になって行く。「日本青年協議会」を率いた人物は、長崎大学出身の椛島有三であった。椛島有三は左翼の大衆動員の方法からヒントを得て、地方自治体と地方議会に働きかけ、地方から「元号法制化」の決議をしてもらい、政府に圧力をかけるという手法を展開した。

また「日本青年協議会」は、地方の力を結集するために西日本などにキャラバン隊を組んだ。講演会を開き映画を上映して元号法制化を啓蒙すると同時に、地方議会に決議を促すように要請した。

この結果、1968年の運動開始から元号が法制化された1979年まで、47都道府県議会の46の議会と、日本全国の市町村議会の半数以上の約1600の自治体が、国会に元号法の制定を促す決議案を採択した。

そしてついに1979年、元号は国会で正式に法制化した。

Next: 日本会議の中核「日本青年協議会」/自民党の変質、日本会議との合体



「日本会議」の中核組織「日本青年協議会」

我々の多くにとって「右翼」と聞くと、街宣車でがなる暴力団系の右翼しかイメージできない。ときおりテレビなどに出てくる「右翼」も明らかに脅しと暴力を手段として用いる暴力団系右翼である。

それらは普通に生きる我々の日常とは異なる世界のものとして、我々は自然に無視し排除してしまうことに慣れている。「また騒いでいる。勝手にやらせておけ」という態度だ。

しかし、実際に政治的な影響力を持つ「右翼」とは、表面に現れたこうした暴力団系右翼ではない。「日本青年協議会」のように、全国を網羅する巨大なネットワークを持つ組織こそ、本当に政治的な力を持つ「右翼」なのである。

ところで「日本青年協議会」だが、「元号法制化運動」の成功以後も組織を堅持し、特に90年代に日本全体の右傾化の波に乗り、さらに拡大した。そして1997年、右翼団体が総結集したプラットフォームである「日本会議」の結成では、中核団体として「日本会議」の実務全般を担う位置にいる。

「日本会議」には289名の国会議員、1000名の地方議員、そして各界を代表する人物が数多く参加している。47都道府県すべてに支部を持ち、末端に裾野を広げる活動にも余念がない。現在でも椛島有三が「日本青年協議会」の会長であり、「元号法制化運動」で培った全国組織を「日本会議」の組織としてさらに拡大している。

言うまでもなく、これは巨大な組織だ。だが、「日本青年協議会」も「日本会議」も草の根的な地道な運動を中心にしており、目だった宣伝活動は一切行っていない。静かに目立つことなく活動している。また報道されることもほとんどなかった。暴力団系右翼のイメージに捕らわれている我々の目からは、完全に抜け落ちた存在だ。

自民党の変質と「日本会議」との合体

しかし、それにしても、総理自身も含めた多くの閣僚が「日本会議」のメンバーというほど、いまの安倍政権は「日本会議」と近い関係にある。

かつての自民党は、さまざまな利益団体の利害を代表する「派閥」が存在し、「派閥争い」と呼ばれる権力闘争が存在した。この権力闘争のため、どの政権も派閥のバランスを考えた閣僚人事を組むことが当たり前であった。

そのようなかつての状況から見ると、閣僚の大半が「日本会議」のメンバーであるといういまの状況は、それこそ自民党全体が「日本会議」に吸収されてしまったかのような状態だ。

本当に自民党をぶっ壊した小泉政権

実は、本当に自民党全体が「日本会議」に吸収されてしまったに近い状況なのだ。そのような状態に追い込んだのは小泉政権であった。

「自民党をぶっ壊す」をスローガンにして出てきた小泉政権は、既得権益の温床となっている公共投資を大幅に削減したり、公団を民営化した。

一方「族議員」と「派閥」は、公共投資の地方への配分に口を聞いてやり、その見返りとして地方の利益団体の支援を受ける構造になっていた。そのため、小泉政権の公共投資の大幅な削減はこうした構造を解体へと追い込み、「族議員」と「派閥」も同様に解体された。

しかし、その結果として自民党は地方の地盤や利益団体の支持を失った。これが2009年の選挙の大敗と政権交代の大きな背景となったことは間違いない。そして野党の位置に甘んじなければならなかった4年間、自民党の新しい支持基盤となったのがまさに「日本会議」であった。

もちろん311以降の民主党のあまりの失政が追い風になったことは間違いない。だが自民党は、「日本会議」の全国組織を基盤にして与党になったと言ってもよい状況だ。要するに自民党は「日本会議」に吸収されたのだ。

Next: 「日本会議」は社会から孤立した「カルト」ではない



「日本会議」は社会から孤立した「カルト」ではない

さて、これが「日本会議」と自民党の実態である。「日本会議」をカルトとして考え、カルトの影響が強い特殊な政権として現在の安倍政権を見ると判断を誤ることになる。

まず、これまで見てきたように、「日本会議」は「オウム真理教」のような日本社会から孤立したカルトではない。日本の市民社会のある部分にしっかりと根を張った政治組織である。

また、安倍政権は「日本会議」の強い影響下にあるというのではない。自民党全体が「日本会議」に吸収されてしまったかのような状態なので、これから現れるどの自民党の政権も「日本会議」が作った政権となる可能性が極めて高い。

「日本会議」が目標としているものは憲法改正による「天皇制国家」の復活である。「生長の家」の創始者の谷口雅春の理想は、いまも「日本会議」に強く受け継がれている。

自民党が「日本会議」に吸収され、その政治部門と化しているのならば、安倍政権以降に現れるどの自民党の政権も、「天皇制国家」の復活を目指し、同じような目標を掲げることだろう。これを阻止できるのは、本格的な政権交代だけだということになる。

これはまさにこのメルマガのテーマである「抑圧されたものの噴出」だ。「日本会議」が象徴するものは、戦後70年間首尾よく人目につかないように抑圧されてきた、敗戦という事実を否定して「天皇制国家」を復活させる野望の噴出なのだ。

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未来を見る! 『ヤスの備忘録』連動メルマガ』(2015年7月24日号)より一部抜粋
※太字はMONEY VOICE編集部による

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