台湾が親日な理由は彼らにあった。台湾の発展に尽くした日本人列伝

 

児玉源太郎、後藤新平、新渡戸稲造

明治31(1898)年、日本の台湾統治は、まだ3年目であり、あちこちに反抗勢力が残り、治安の確立も、産業の発展も立ち遅れていた。ここで第4代提督として任命されたのが、後に日露戦争でも活躍した児玉源太郎である。児玉は、後藤新平(後の東京市長)を民政長官に起用した。

後藤はもともと医師であり、社会衛生を重視した。アヘンに高率の税をかけ、吸引者を徐々に減らすと共に、その税収を衛生改善に当てた。当初16万9,000人もいたアヘン吸引者は、50年後の日本敗戦時には皆無となっていた。

また、台湾は「瘴癘(しょうれい、風土病)の地」とも呼ばれ、台湾平定時の日本軍戦死者164名に対し、病死者が実に4,642名という有様だった。

後藤は悪疫予防のために、上下水道を完備し、主要道路は舗装して、深い側溝を作り、汚水雨水の排出を速やかにした。これは当時の日本本土でも行われていなかった。

伝染病を抑えるために、台湾医学校を設立して、ここから多くの台湾人医師が育った。またほとんど都市の形をなしていなかった台北で大都市計画を実行し、整然とした清潔な市街を作り上げた。

児玉と後藤が台湾農業振興のために、三顧の礼で迎えたのが、日本で最初の農学博士・新渡戸稲造である。新渡戸は、半年かけて台湾全土を巡り、製糖産業に目をつけた。そして品種改良、耕作方法、加工法の改善に取り組んだ。

この努力が実り、1900年に3万トンだった産糖は、1940年には160万トンとなり、台湾は世界有数の生産地となった。

児玉は、後藤、新渡戸を全面的にバックアップするかたわら、各地を精力的に巡視して、80歳以上の老人男女を食事に招待する(饗老会)など、民心把握に努めた。日露戦争中は、満州軍総参謀長となりながらも、台湾提督の職位を離れなかった。

児玉の死後、江ノ島に神社を作ろうという議が起こったが、予算11万円に対し、集まったのはわずか3,000円であった。このことが台湾に伝わると、残りの10万7,000円はわずか2週間で集まった。台湾人民がいかに児玉を敬愛していたかが窺われる。

西郷菊次郎の治水工事

西郷菊次郎は、西郷隆盛が奄美に流されたおり、愛加那(あいかな)との間にもうけた子供である。米国留学の後、台湾が日本に割譲された明治28(1895)年から、約7年間、地方行政に携わった。

そのうち5年6ヶ月を、台湾の東北部、宣蘭ぎらんの庁長として務めた。宣蘭は台湾第2の平原である蘭陽平原にあり、そこを流れる宣蘭河は、毎年氾濫を起こし、民衆を苦しめていた。

西郷はこの治水工事に巨費を投じ、約1年半、延べ約74万人の人員を投入して、取り組んだ。この治水工事が成功して水害は根絶され、宣蘭の民衆有志は、その恩恵に感激して石碑を立てた。この「西郷庁憲徳政碑」は、3m以上もの巨大なもので、漢文で西郷菊次郎の徳政を高く称えている。

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