台湾が親日な理由は彼らにあった。台湾の発展に尽くした日本人列伝

 

蓬莱米を開発した末永仁と磯永吉

日露戦争後、台湾は食糧不足に悩む日本本土にコメを輸出するようになった。しかし台湾米はインディカ種であって、内地人の食習慣に合わず、価格も三等米の半分にしかならなかった。明治43(1910)年、「コメを改良して、台湾農民に生きる道を」との志を抱いて、農業技術者末永仁が台湾に渡った。末永は、磯永吉という農学徒と出会い、2人で台中州で台湾米の改良に取組んだ。

2人は10年の歳月をかけて、千余種の改良品種を実験し、ついに大正10年「台中65号の開発に成功した。それは台湾の気候によく合い、収量性、耐病性、そして美味にも優れた画期的な品種であった。大正15年当時の伊沢台湾総督はこの対中65号を「蓬莱(台湾の美称)」と命名し、増産に大きな期待をかけた。磯はその後、博士号を得て、台北帝大農学部教授となり、島内での蓬莱米作付けの奨励と指導に大きな力を発揮していく。

磯は、終戦後も中華民国政府に農業顧問として留まり、台湾の農業発展につくした。昭和32年の帰国時には、異例の最高勲章を授与され、同47年の死去まで、毎年20表ものコメが年金の代わりに贈られた。

台湾の土となった明石元二郎提督

大正7(1918)年に赴任した第7代提督明石元二郎は、日露戦争でロシア革命を支援し、勝利に大きく貢献した蔭の立役者であった。明石は赴任すると、まず各地の巡視を丹念に行い、民情の把握に努めた。

台北刑務所を巡視した際には、受刑者は24~25歳に多いという説明を受けると「それはまことに、相済まぬことである」と言った。

24~25歳の受刑者といえば、日本統治が始まってから生まれた計算になる。明石は、日本統治にまだまだ至らないところがあるために、青年の犯罪を生んでいると考え、さらなる善政への決意を新たにした。

明石の在任期間は1年4カ月と極めて短い。しかしその間に日月潭水力発電事業台湾新教育令(内地人との教育上の区別を少なくし、台湾人にも帝国大学への道が開かれた。ちなみに李登輝元総統は京都帝国大学出身)、道路や鉄道など交通機関の整備森林保護の促進など精力的に事業を進めた。

台湾統治に並々ならぬ力を注いだ明石総督は、未来の総理大臣という呼び声も高かったが、惜しくも赴任後1年間余にして病死した。その遺言により遺体は台湾に埋められ、人々の多額の寄付によって200坪もある壮大な墓が作られた。

文責:伊勢雅臣

image by: Wikimedia Commons

 

Japan on the Globe-国際派日本人養成講座
著者/伊勢雅臣
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