日本人引揚者を温かく迎えた「夢の港」舞鶴とウズベキスタンの強い絆

 

今なお残る悲惨な抑留生活の証

舞鶴には引揚者が日本の大地を踏みしめたたいら引揚桟橋が終戦と平和の象徴的スポットとして残されているほか、1988年に引揚記念館をつくる動きが高まり、建設。ユネスコ世界記録遺産に登録された館内にはシベリアや中央アジア抑留の史実を伝える展示コーナーがあり、語り部も常駐している。

そこにはウズベキスタン抑留とナボイ劇場建設の話も最近つけ加えられた。シベリアなどの数々の遺品や絵画、模型などが抑留生活の悲惨さを映し出している。

東京五輪でウズベクのホストタウンに

舞鶴とウズベキスタンのつながりは、舞鶴市が、私が会長を務める日本ウズベキスタン協会の活動や拙著『日本人捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた』(角川書店)のノンフィクションを読んで接触してこられたことから始まった。

昨年秋、安倍首相がウズベキスタンを訪れ日本人墓地をお参りしたほか、抑留中の日本人の活動を記録し、私財で記念館を作ってくれたスルタノフ氏を日本に招待し、日本で舞鶴市長らと会ったことが縁となった。

引揚記念館の周囲には様々な部隊の植樹が行なわれているがウズベキスタンも2本の木を植えており、そのうち1本は中央アジアの親日の象徴であるオペラハウスナボイ劇場」をつくった方々が集われている「第4ラーゲル会の桜だった。スルタノフ氏は日本滞在中に舞鶴に行き、それが縁となって舞鶴市は東京五輪の際にウズベキスタンをもてなすホストタウンにも名乗りをあげている。近くウズベク側と正式な調印と話し合いを行なう予定といわれる。

今も年間10万人以上が訪問

赤れんがの旧海軍の街、引揚船の聖地・舞鶴は、戦後70年経って多くの人が忘れかけているが、同じ京都府に歴史をきちんと守り続け戦争の悲惨さを伝えている街があることは誇らしいことだ。そして今日でも全国からシベリア抑留を体験し舞鶴に帰国した家族、親族の人や学校の社会見学などで毎年10万人以上の人が訪れている。

ぜひ一度風光明媚で穏やかな街・舞鶴を訪れて頂きたい。一見以上の価値と胸を打つものがあると信じる。

(Japan In-Depth / 2016年6月21日)

image by: Wikimedia Commons

 

ジャーナリスト嶌信彦「時代を読む」
ジャーナリスト嶌信彦が政治、経済などの時流の話題や取材日記をコラムとして発信。会長を務めるNPO法人日本ウズベキスタン協会やウズベキスタンの話題もお届けします。
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