MAG2 NEWS MENU

お稚児さんの選び方は?京都通しか知らない「祇園祭」完全ガイド

前回の「京都の風物詩『祇園祭』。氏子らが7月にキュウリを食べない理由」に続き、無料メルマガ『おもしろい京都案内』では今回も「祇園祭」の魅力を存分にご紹介。神幸祭・還幸祭と山鉾巡行の見どころや、祇園祭の主役とも言える長刀鉾のお稚児さんの「大変」な裏側、山鉾を彩る海外産タペストリーの謎など、ガイドブックではあまり知ることの出来ない内容が満載です!

祇園祭特集 後編

7月の京都と言えば祇園祭です。前回は「キュウリ封じ」までをご紹介しました。今回ご紹介するのは「2つの祇園祭」から残り全てです。かなりのボリュームですが、のんびり読んでみて下さい。

2つの祇園祭(山鉾巡行と神幸祭・還幸祭)

祇園祭には2つの顔があります。ご紹介したように毎年7月17日と24日に鉾町が中心となって行う山鉾巡行が祇園祭の1つの顔です。この山鉾巡行は動く美術館」と言われていて、祭では世界唯一、ユネスコの無形文化遺産に登録されています。もちろん日本の三大祭京都の三大祭の1つです。

もう1つの顔は八坂神社の例祭である神幸祭17日還幸祭24日)です。これこそが本来メインの神事であり、その露払い的な意味合いで鉾町の町衆の心意気で始まったのが山鉾巡行なのです。

神幸祭は毎年7月17日前祭の山鉾巡行が終わった後夕方から深夜にかけて行われます。還幸祭は同じく7月24日後祭の山鉾巡行が終わった後夕方から深夜に行われます。神幸祭は八坂神社に祀られている神様の御霊(みたま=魂)を神輿に移して氏子地区を周り御旅所まで運ぶ神事です。お神輿は神様の魂を乗せて運ぶものです。このような神事はどこの神社でも行われている一般的なものです。

八坂神社はスサノオノミコト(素戔嗚尊)、クシイナダヒメノミコト(櫛稲田姫命)、ヤハシラノミコガミ(八柱御子神)を祀っています。クシイナダヒメノミコトはスサノオノミコトの奥さんです。ヤハシラノミコガミは2人の間に生まれた五男三女の皇子(みこ)達です。八坂神社はスサノオノ家の一家10人の神様達が祀られている神聖な場所なのです。

スサノオノミコトは、イザナギノミコト(伊弉諾尊)とイザナミノミコト(伊弉冉尊)の皇子でアマテラスオオミカミ(天照大神)の弟です。アマテラスオオミカミはスサノオノミコトのお姉さんで伊勢神宮の祭神であり天皇家の祖先です。この辺りは日本書紀や古事記に記載されている日本神話の内容です。

八坂神社には三柱の神が祀られているので、神輿は3基です(かわいい子供神輿が出るので厳密には4基ですが)。この3基の神輿が17日の夕方八坂神社を出発して鴨川を渡り四条寺町の御旅所まで移動します。神輿がそれぞれの氏子達によって担がれて四条寺町の御旅所まで渡される神事を神幸祭といいます。3基の神輿は17日から24日までの1週間御旅所に鎮座して24日の夕方に再び氏子達に担がれて八坂神社に戻ります。これを還幸祭と呼びます。

スサノオノミコト一家は1年のうちこの1週間だけは御旅所で家族一緒に水入らずの時間を過ごすことが出来るのです。京の都を1,100年以上疫病から守ってきた守護神のつかの間の休息かもしれません。御旅所に鎮座する3基の神輿前にはろうそくを献じる人達の姿が後を絶ちません。花街の芸舞妓さんの間では「無言まいり」という習わしがあります。おまじないみたいなものかもしれません。自分達が住む置屋から御旅所まで無言で行き、手を合わせてお願い事をします。そして無言のまま置屋まで帰るというのを17日から24日まで1週間続けます。毎日無事に無言でお参りできたら願いが叶うというものらしいです。その間に顔見知りの人に会ってしまうとアウトです。芸舞妓さん、特に舞妓さんが住んでいるのは祇園界隈の置屋さんです。祇園から四条寺町までは鴨川を挟んで東と西、歩いて10分もかからない距離です。しかしこの辺りは京都で一番人通りが多い場所で結構知り合いに遭遇してしまいます。花街に通う旦那衆はそれを知っていて四条河原町辺りで贔屓の芸舞妓さんをよく待ち伏せしているとか(笑)。

神幸祭・還幸祭の魅力

祇園祭の神幸祭は3基の大神輿と子供神輿がのべ1,000人以上の氏子の担ぎ手によって担がれます。京都の祇園祭は男祭そのもので、真っ白な法被(はっぴ)姿の男衆が神輿を担ぐ姿はとても迫力があり圧巻です。朝の豪華絢爛な山鉾巡行とは打って変わって、神幸祭の神輿渡御は「暴れ神輿」といわれ勇壮で豪快なのが特徴です。午後6時頃から祇園石段下で1基ずつ大神輿が勇猛な男衆により担ぎ揉まれます。スサノオノミコトの荒御霊のように神輿が暴れ狂う様は圧巻です。「ホイット ホイット」という掛け声とともに勇壮に差し上げ三基の神輿を同じ方向にまわします。祇園石段下はステージと化したようになり熱気と掛け声、歓声で湧き上がります。その後神輿は1基ずつ違う経路を通って、3時間ぐらいかけて四条寺町の御旅所に向かいます。八坂神社を出発した神輿は夜9時頃に相次いで四条寺町に到着し豪快な「差し上げ」を披露します。この夜から7日間、24日の還幸祭まで神輿は御旅所に鎮座します。

見どころは祇園石段下御旅所前ですが、17時ごろから石段下の周囲は多くの人が詰めかけます。早くから場所取りがおこなわれます。私は例年2時間以上前にはスタンバイしています(笑)。御旅所前の四条通は石段下より狭いですが、その分近くで豪快な「差し上げ」を見ることが出来ます。

7日後24日の還幸祭は神幸祭の逆のことを行います。夕方御旅所を出発し夜9時ぐらいに八坂神社に帰っていくのです。

祇園祭のもう1つの顔である山鉾巡行の魅力 山鉾巡行(行事)と鉾町(ほこちょう)の歴史

鉾町が出す山や鉾の歴史は応仁の乱以前まで遡ります。足利将軍の世継ぎ争いに端を発した応仁の乱は、数十年間続き京の都を焼け野原にしてしまいました。京都郊外に住む飢えた極貧の農民は土一揆を起こすも、足利将軍家を始め武士達はそれを鎮圧する力もなくなっていました。町の中心部はしばしば郊外に住む貧農による土一揆で家が焼かれる被害にあっていました。

農民の一揆に手を焼いた幕府の管領(幕府の要職)は、市内の町民を集めて土一揆を起こす農民の住む町に攻め入りました。しかし、町民は弱いもの同士が殺し合う事に疑問を抱き、武士階級に対する不信感を強めました。そして町民たちも農民と同じように税金を払わないことで武士階級に抵抗することを決めます。町民は武士に抵抗するために団結力を見せる必要がありました。その団結力こそが町民の手による祇園祭の山鉾行事の再興でした。この時、町民は戦乱で30年以上途絶えていた祇園祭の再興を決意したのです。

しかし武士達はこの祭りを邪魔しようとしていました。祭の直前に武士達から神事取りやめの命令が出されます。それまで600年ほど「祇園会」(ぎおんえ)は神事として行われてきました。しかし、約30年ぶりに町民の手による神事なしの祇園祭を強行したのです。これこそが八坂神社の神事とは別に山鉾巡行が完全に町民のものとして行われるようになった祇園祭の発祥です。祭当日、山鉾巡行の時、武士側の侍や僧兵が立ちはだかります。武士たちの放つ矢が町民に当たり、死傷者も出るような惨事もありました。それでも彼らは命と引き換えに祇園祭を永遠に続ける事を町民に言い残しました

応仁の乱が終わっても荒廃した京都に約30年間祇園会を再興する事は出来ませんでした。再興するきっかけは鉾町の町民の武士階級への反発の原動力とも言える団結力でした。数十年もの間沢山の人の血が流れたため、町民は可能な限り平和的な反発や抵抗がしたかったのです。それが祭り再興への一致団結の強い気持ちでした。西暦1500年にかつての祇園会が祇園祭として再興していなかったら、今日の祇園祭はなかったかも知れません。

祇園会として600年以上、祇園祭として516年続く今年の祇園祭。昨年は台風11号の影響で中止の可能性がなかった訳ではありません。でも今まで悪天候がもたらす洪水や干ばつなどによる疫病を防ぐ目的で始まったのが祇園会です。過去516年間分かっているだけで中止中断された時は数えるほどしかありません。1467年の応仁の乱後の32年間、1582年の本能寺の変の年は11月に延期。1865年は蛤御門の変の影響で前祭が中止されました。明治以降は3回の時期に延期や中止を余儀なくされました。1879年から1895年の間にコレラの流行が原因で4回ほど延期や前倒しが行われました。第二次世界大戦前後、1943年から1946年の4年間は中止されています。戦後は1962年の阪急電鉄の工事にともなって一度だけ中止されています。悪天候での前回の中止又は延期は131年前の1884年に大雨の影響で前祭の延期という記録があるのみです。こうして見ていくと、いかに祇園祭が鉾町の町民に大切に受け継がれてきたかがよく分かります。

昨年、前祭の日の天気予報が大雨なので、前日に何人かの鉾町の方に山鉾巡行が中止にならないのか尋ねました。すると、どの方も「雨天決行大雨強行」と言われていました。鉾町の方達はどんなに炎天下で暑くても、土砂降りの雨でも天候の事など気にもしていない様子でした。京都府警察は山鉾連合会に悪天候で祭を強行して死傷者が出ても責任は取れないと通告したそうです。それに対して山鉾連合会は悪天候が理由で中止して京都に疫病が流行したら誰が責任取るのかと返したとか。京都では警察官や政治家も伝統の力には勝てないといった感じなのかもしれません。

山鉾巡行を楽しむポイント

祭りのハイライトは、絢爛豪華な山鉾が市内中心部を巡行する17日の前祭巡行24日の後祭巡行です。

2014150年ぶりに休み鉾だった大船鉾が復興しました。これに伴い、49年ぶりに神様をお迎えに行く「前祭(さきまつり)」と「後祭(あとまつり)」に分かれたのです。山鉾巡行が本来の姿に戻ったのです。これによって宵山も前祭と後祭それぞれ行われ祇園祭の楽しみが2倍になりました。本来の姿を取り戻した祇園祭の山鉾巡行を是非、生で確かめてみて下さい。

山鉾巡行のハイライトは、「くじ改め注連縄切り(しめなわきり)」(17日だけ)と「辻回し」です。くじ改めは、山鉾巡行の順番が7月2日のくじ取り式で決まった順番になっているかを確認する儀式です。京都市長が奉行役となり、各山鉾町の町行司が文箱のくじ札を差し出して確認します。

注連縄切りは長刀鉾稚児が四条麩屋町に建てられる斎竹(いみだけ)に張られた注連縄を太刀で切り落とし、結界を解き放つ儀式です。そこから先が神域となり、山鉾が巡行していきます。

そして、交差点で山鉾を90度回転させる「辻まわし」にも注目です。車輪の下に竹をスノコのように敷き詰め水を打ち、かけ声とともに引き回します。すごい迫力で拍手喝采です!

辻回し場所

四条河原町交差点
河原町御池交差点
新町御池交差点

17日の前祭には新町御池では、先頭の長刀鉾に乗っているお稚児さんの、降りる姿が見られます。

● 前祭巡行 7月17

9:00:四条烏丸出発
9:40:四条河原町通過
10:35:河原町御池通過
11:25:御池新町到着

● 後祭巡行 7月24

9:30:烏丸御池出発
10:00: 河原町御池通過
10:40:四条通河原町通過
11:25 : 四条烏丸到着

祇園祭の主役・長刀鉾のお稚児さん

毎年7月の京都は鉾町(ほこまち)のあちこちで祇園祭のお囃子(はやし)が聴こえてきます。鉾町とは室町通と新町通の周辺で四条通を周辺に南北に広がるエリアで祇園祭の山や鉾を出す町のことをいいます。前祭(さきまつり)の山鉾巡行で毎年決まって先頭を行く長刀鉾(なぎなたぼこ)は山鉾の中心的な役割を果たします。現在唯一生稚児(いきちご)を乗せて巡行するのも長刀鉾だけです。祇園祭の主役ともいえる「長刀鉾のお稚児祭さん」に関する興味深い話を紹介します。

唯一の生稚児

長刀鉾は選ばれた生稚児が禿(かむろ)と共に搭乗します。かつては船鉾を除いた全ての鉾に稚児が乗っていたようですが、今では生稚児が搭乗するのは長刀鉾だけです。1788年の天明の大火で壊滅的な被害を受けた函谷鉾(かんこぼこ)が1839年に復興する際、稚児人形を用いました。これをきっかけに、以後他の鉾もそれにならい稚児人形に替えていきました。

6月の大安の日

稚児は8~10才ぐらいの男子が選ばれ長刀鉾町と養子縁組をします。6月中の大安の日に結納が贈られます。稚児に選ばれた家では、結納の儀に合わせ、八坂神社の祭神・牛頭天王(ごずてんのう)をお祀りする祭壇が設けられます。

7月13日 社参の儀

稚児が白馬に乗り、正五位少将(しょうごいしょうしょう)の位と十万石大名の格式をもらう儀式の為に、八坂神社へ社参します。この儀式は別名「お位もらいの儀」といわれ、その位は平安末期に太政大臣だった平清盛と同じぐらいのものだそうです。この儀式が終わると稚児は「神の使い」となります。この後、14日~16日まで毎夕7時に、介添えの人々と共に社参します。「神の使い」となった稚児は、食事の際にお膳は火打石で打ち清めてから食べることになります。稚児家では、女人禁制となり父や祖父の男性だけで食事をし、祭壇がある注連縄の張られた部屋で過ごします。

早朝より稚児は白塗りの厚化粧をし、神に仕える装束に身を包みます。神の使いとなった稚児は穢れから身を守るために地上を歩かず、屈強な強力(ごうりき)の肩に担がれ鉾の上まで昇ります。

巡行のハイライト

17日午前9時、長刀鉾を先頭に前祭の全ての山鉾23基が順に四条烏丸を出発します。ハイライトは稚児による「しめ縄切り」です。先頭を行く長刀鉾が四条麩屋町(ふやちょう)にさしかかった時に、通りを横切って張られたしめ縄を稚児が刀で切り払います。そして神域に入る道を開くのです。その後長刀鉾は四条寺町のお旅所前で停止し、疫霊を祭神にお渡しする御霊会(ごりょうえ)本来の儀式を行います。役員が玉串を捧げ、稚児が舞い、八坂神社に向かって一礼します。この後、四条河原町を左折し河原町通りを北上し、御池通りの観覧席から盛大な拍手で迎えられます。稚児と禿は御池通新町で鉾から降り、八坂神社へと向います。八坂神社では位を返す「お位返しの儀」が行われ、稚児と禿は再び普通の少年に戻ることになります。

稚児の選び方

「一般公募」やオーディションのようなものはなく、選定方法は「神事に関すること」として非公開。多くは祇園祭の役員周辺や有力な自営業者で資産家の家系から年頃の男児が選ばれているようです。過去1年以内に家族内で不幸があった家庭は選定から除外されます。

稚児に選ばれた両親は本人の羽織袴や着物を新調しなければなりません。そればかりか、行事の後の宴会費用、参加者のハイヤー代、謝礼など全て自己負担です。

最低でも2,000万円は下らないとみられています(1億円ぐらいかかるとも)。数ある儀式の前後には関係各所に挨拶に出向くことになります。1日に何軒も周ることもあるでしょう。稚児のお母さんが毎回同じ着物という訳にもいかず、その都度違うものをしつらえるという話も聞きます。稚児のお母さんの着物を用意する呉服屋さんは、そのお母さんの着物関係の売り上げだけで1年暮らしていけるそうです。祇園祭のお稚児さんは色々な儀式が執り行われますので、その儀式ごとに着物を買いそろえなくてはいけません。他にも、お祝いの品を買い揃えたりするので巨額の費用がかかります。このように候補に挙げられる家庭も限られていますので親子代々や兄弟でお稚児さんをするケースもよくあります

私が知る限りくずきりで有名な祇園の「鍵善良房」さんは親子2代で長刀鉾のお稚児さんに選ばれています。昨年も某老舗呉服店の御曹司が選ばれ親子2代でした。お父さんは祇園祭の期間中は仕事に行かずにお稚児さんのサポートをしなければなりません。お稚児さんに選ばれた本人も儀式や行事のために何日も学校から公休をもらわなければなりません。神の使いになる訳ですから稚児家に選ばることは名誉なことですが、それだけに誰もが簡単に出来るようなことではないのです。まさに京都の良家の御曹司でないと務まらないとても名誉な大役です。

山鉾を彩る豪華絢爛なタペストリーの謎

祇園祭の山鉾は様々な懸想品によって色とりどりに飾られています。懸想品には豪華絢爛な海外のタペストリーが使われています。どうして海外の素晴らしいタペストリーが日本の祇園祭で現在でも使われているのでしょう? これは依然テレビ番組でその謎が解明されていました。

江戸時代、鎖国をしていた日本は唯一オランダとは交易がありました。オランダのハーグ国立公文書館の平戸オランダ商館の記録にタペストリーが徳川幕府への献上品に含まれていることが分かっています。タペストリーが徳川家の手に渡った経路は、イエスズ会の宣教師が贈ったという説などが伝えられています。海外の公文書によると受取人所有者は徳川将軍家ということになります。ベルギーのブリュッセルから、徳川家に対して贈られてきたのがペルシャなどで織られた最高級品質のタペストリーだったのです。

京都の豪商「三井本店」(越後屋)の文書では、「紀州徳川家34万両200億円以上貸方が記録されているようです。オランダから徳川幕府に渡ったタペストリーが、増上寺・加賀藩・尾張藩・紀州藩などに渡っています。そしてその一部のタペストリーは借財を背負っていた藩から京の町衆の手に移っているのです。

ただ将軍家から京の町衆にタペストリーが渡った経路は分かっていません。これは京都の町衆が相手方(将軍家)に迷惑をかけないようにとの粋な配慮があって敢えて記録に残していないともいわれています。そんなことを記録に残していたら徳川将軍家が京の町衆から多額の借金をしていたという不名誉な事実が語り継がれてしまうからです。

三井家では、55万両もの金を大名たちに貸し付けていたといいます。町衆は単に金持ちというだけでは京都で尊敬されません。芸術的な審美眼があり「目利き」であることが要求されていました。そして、祇園祭の山鉾に対する目配りもその1つだったようです。それにしても江戸時代には、武士よりも商人の方がお金持ちで、徳川将軍家よりも京都の豪商の方が裕福だった時代だったのですね。

宵山(山鉾巡行前夜)を楽しむポイント

  1. 駒形提灯が灯り、コンチキチンと祇園囃子が奏でられる山鉾の鑑賞。情緒がありノスタルジックでなんとも言えない雰囲気が最高です。
  2. 子供たちの童歌(わらべうた)を聞く。「粽(ちまき)どうですか」と会所で粽を売る子供達の姿や、「ろうそく一丁献ぜられましょう」と、節を付けて歌うわらべ歌。その様子は祇園祭の情緒を盛り上げます。
  3. 鉾上に登らせていただく。
  4. 夜10時過ぎは各山鉾の日和神楽(ひよりかぐら)を鑑賞する。

日和神楽とは

日和神楽は京都の夏の風物詩です。これが風流でとてもいいものなのです。宵山(16日、23日)の夜10時ぐらいから各鉾町を出て四条寺町のお旅所まで、翌日の巡行の晴天や無事を願いお参りに出向きます。屋台に太鼓や鉦(かね)を積み、祇園囃子を奏でながら四条寺町の御旅所へ向かうこの「日和神楽」は大変情緒のある行事です。お旅所では、八坂神社の宮司さんから鉾町の町衆と囃子方が御祓いを受け、お囃子を奉納します。御旅所を出た後は、各寄り町(馴染みの商店など)を通って各鉾町帰ります。

前祭の先頭を巡行する長刀鉾だけは16日の夜八坂神社にお祓いとお囃子の奉納に行きます。帰りは祇園の花街を通ります。芸妓さんや舞妓さんが待つ中お茶屋さんや料亭の前で何度も止まってビールなど飲み物の接待を受けます。この時点で日付は変わっています。

後祭の宵山は2つのオマケ付き!

オマケ1 役行者(えんのぎょうじゃ)山の護摩焚(ごまだ)きを観る

役行者山護摩焚きは毎年7月23日2時から行われる京都の夏の風物詩です。聖護院門跡(しょうごいんもんぜき)の山伏が役行者山町の路上に設けた護摩壇で、宵山期間中に奉納された護摩木を焚き上げます。祈願成就を願ったり、後祭の山鉾巡行の安全を祈願したりします。

役行者山は、三条室町上ルにあり、町名は役行者町です。山鉾町の中でも鈴鹿山と並び最北端にあります。聖護院門跡の山伏さんたちは、午後1時に六角堂を出発し、浄妙山、北観音山、南観音山、八幡山を巡拝した後役行者山に到着します。午後2時、ホラ貝とシャンシャンという錫杖(しゃくじょう)の音と共に20数名の僧侶と山伏の方たちが到着します。役行者山のご神体に祈祷された後、路上に設けられた護摩壇での護摩焚きが始まります。一行が、注連縄で囲まれた結界の中に入る際、山伏問答が行われすべて答えた上で入場が許されます。まず「素性」を尋ね、「山伏とは」「修験道の開祖とは」「修験の教えとは」などテンポの早いやりとりは見どころの1つです。

こうして役行者山の前に張られた結界の中に山伏たちが入りいよいよスタートです。まず弓を使い邪気を祓い場を清めます。東西南北、そして護摩壇や天に向かってそれぞれ矢が放たれます。次に護摩壇に向かって刀や斧を使い邪気を払います。その後、山伏の読経が響く中いよいよ護摩壇に着火します。この読経を読み上げる山伏の声が良くて、リズムも素晴らしいのでそばで聴いているだけで吸い込まれていくようです。

護摩焚きには人間の穢れを取り払い身を清めるという意味が込められているとのこと。この煙を浴びる事によって穢れや厄を祓う効果があるそうです。これはこの説明だけではどうにもならないので実際に観賞することを強くお勧めします!

オマケ2 南観音山のあばれ観音を観る

後祭の宵山23は南観音山の「あばれ観音」を観る(宵山深夜11時半頃から30分程度)。これは宵山の深夜に南観音山だけで行われる行事です。囃子方たちは日和神楽から戻るとすぐにハッピに着替え、本尊の楊柳(ようりゅう)観音をしばりつけた御輿を担ぎます。町内を3周しながら町の両端で激しく揺らすという不思議な儀式です。これは翌日の山鉾巡行中に静かに座っていてもらうために今のうちに暴れさせるというもの。そして、隣町の北観音山の観音さまへの恋心を暴れることで冷めさせるためなどとも言われています(笑)。いずれにしても微笑ましい言い伝えを純粋に守り続けて暑い夜に真剣に儀式を取り行っている姿が微笑ましくて好きです。祇園祭・宵山最後の行事として、深夜にもかかわらず多くの観光客や見物客が集まります。

あばれ観音が終わると、直ちに通りの露店は取り払われて翌日の巡行に備えます。全てを終え、鉾町の人が眠りにつくのは深夜2時、3時とか。誰を喜ばせるためでもなく、自分達や京都の街の疫病退散の祭のためにこうして1,000年以上続けている人達に感動するのです。

いかがでしたか? 今回は今まで自分が実際に見たり聞いたりした内容も含まれています。祭りの関係者達からしか聞けないようなことも盛り込んでいます。祇園祭はいつか自分の研究テーマにしたいぐらいなので、毎年取材のように関係者に聞きまくってます(笑)。本などでは調べられないようなエピソードがとても沢山あってその魅力は尽きません。そのようなことを余すところなくお伝え出来ればと思います。

image by: twoKim / Shutterstock.com

 

おもしろい京都案内
毎年5,000万人以上の観光客が訪れる京都の魅力を紹介。特にガイドブックには載っていない京都の意外な素顔、魅力を発信しています。京都検定合格を目指している方、京都ファン必見! 京都人も知らない京都の魅力を沢山お伝えしていきます。
<<登録はこちら>>

 

print

シェアランキング

この記事が気に入ったら
いいね!しよう
MAG2 NEWSの最新情報をお届け