僕達は目にウロコをつけている
さあ、そしてここからが皆さんの生活にも関わってくる部分です。
このように、人は「自分で結果を左右できるかも」という幻想を簡単に持ってしまいます。そしてこの誤解は、厳密な確率論の原則を理解せず無視してしまい、思わず直感で物事を判断してしまうからなのです。
人は得てして、「類似」や「代表性」から物事を直感的に判断して、間違いが増幅されてしまうことがあるのです。例えば、「刺青をしている」から「危ない人だ」とか、「動物好き」だから「良い人だ」といった短絡的な判断です。
2002年のノーベル経済学賞を取ったダニエル・カーネマンとエイモス・トベルスキーが行った実験が、この問題を端的に示していて、非常に興味深いので簡単に紹介します。
この実験では、被験者はまず次のような文章を読まされます。
「リンダは31歳の女性で独身、はっきり自己主張するタイプで非常に聡明である。大学では哲学を専攻し、学生時代から差別や社会的不公正に強い関心を持ち、核兵器廃絶を求めるデモにも参加していた。」
これを読んだあと、被験者達はリンダに関するいくつかの記述が、どの程度「もっともらしい」と思うかを尋ねられました。
一つ目は「リンダは銀行の窓口係の仕事をしている」というもので、ふたつ目は「リンダは銀行の窓口係の仕事をしており、フェミニスト活動に積極的に関わっている」というものでした。すると、被験者の85%が、リンダは単なる銀行の窓口係にすぎない確率よりは、フェミニスト運動家でもある可能性の方が高いと答えたのでした。
ところが、この回答は確率論の基本的原則である、「複合命題の確率」に違反しているのです。難しい用語を抜きにして噛み砕いて言えば、AとBの両方であるという確率は、Aであるという確率に等しいか、それ以下であるべきという原則です。
確かに、リンダは差別や社会的不公正に関心があるのだから、フェミニストなのではないかと連想させます。なので、リンダは単に「銀行窓口係」というよりは、「銀行窓口係で、かつフェミニスト運動家だ」といった方が、よりリンダを表しているように思えてしまうのです。
いまいちピンとこないかもしれないので、もう少し身近で単純化した例を考えてみます。
「5歳のしんコロちゃんは、果物屋さんと駄菓子屋さんの前を通ると、興奮してジタバタしはじめる」
という記述があったとします。では、しんコロちゃんは「スイカが好きである」か、もしくは「スイカが好きであり、ふ菓子も好きである」のどちらがそれっぽいか?と聞かれたらいかがですか?「スイカとふ菓子が好きだろう」と連想してしまいがちですが、確率論的には「スイカとふ菓子の両方が好き」な確率は、「スイカが好き」な確率よりも同じかそれ以下になるのです。
もしまだピンとこなければ、数を極端にしてみれば良いのです。しんコロちゃんは「スイカが好き」かもしくは「スイカ、みかん、りんご、ふ菓子、うまい棒、そしてすももが好き」のどちらか?と言われれば、後者のすべてがドンピシャで当たる確率は単に「スイカが好き」というよりも低くなるのは当然なことが分かると思います。
「なんだ、そんなの当たり前だ」と思われるかもしれませんが、これが対人関係になるとむしろやってしまう誤りなのです。
たとえば、ちょっと派手目な女性が夜遅く自宅に帰って来たのを目撃した近所のおばちゃん達が「あの人は不倫をしているにちがいない」とゴシップとして面白いストーリーに増幅してしまうのもその例の一つです。
こういった現象を、先述のカーネマンとトベルスキーは基礎確率の軽視ないし無視に起因する「代表性の簡便的意思決定法」と名付けたのでした。









