偏見を賞賛に変えた奇跡。日系志願兵「第442連隊」の栄光と影

 

ファナティック(狂信的)なオリエンタル・ソルジャー

ローマへの進軍途上で最も激烈な戦闘が行われたのが、カッシーノであった。ドイツ軍はここで連合軍の進撃を止めようと、強固な防御線を築いていた。最初に挑戦した2個師団はほとんど全滅した。第100大隊もほとんど同じ地点からの攻撃を命ぜられた。

ラピド河の上流のダムが爆破され、一面泥に埋まった150メートルもの川原を地雷を避けながら前進する。身を隠すものの何もない処に猛烈な砲火が降り注ぐ。多数の死傷者を出しながら、なんとか渡河に成功したが、横に並んだ他の部隊がことごとく渡河に失敗して、引き上げざるを得なかった。

カッシーノは結局、2度の空爆と4回の総攻撃により、4ヶ月後に攻略できた。第100大隊のA中隊は170余名だったが、この戦いに生き残ったのはたった23名であった。「僕はハヤシ家を代表してお国のために戦えることを心から名誉に思っています」と、両親への最後の手紙に書いたドナルド・ハヤシ伍長(24歳)ここで戦死した一人である。

わが国とファナティック(狂信的)に戦っている敵国からの移民の子孫、といってもまだ2代目だが、これら筋骨たくましいオリエンタル・ソルジャーは、同じようなファナティックさで今やわが国のために戦っている。

後に第100大隊と行動をともにしたUPの記者のこの記事は全米各地の新聞に掲載された。しかし、勇猛果敢な戦いぶりをみせる日系兵たちは、同時にこんな思いを家族への手紙で吐露していた。

ある町を占領したとか、ある高地を取ったと新聞で読むごとに、覚えておいて下さい。そのたびに幾人もの青年の命が消えたということを。忘れないでください、そのための戦いが身の毛のよだつ悪夢だということを。それは共に笑い眠り冷や汗を流した友を失うことなのです。友というより、血を分けた兄弟以上とさえいえる戦友が目の前で死んでいく。想像を絶する傷を受け、最後の息を吐くまで呻き祈ろうとする。数分前までは一緒に笑っていた友がです。(M・ツチヤ)

スパーブ(並はずれて優秀)という一言

日系の志願兵からなる第442連隊は約一年の訓練を終えて、6月10日、第100大隊とローマ北方で合流し、その配下の一大隊とした。本来なら第一大隊と改称する処だが、上層部の配慮で、戦功に輝く第100大隊の名前はそのままとされた。

連隊は海岸沿いに北上を続けたが、ベルベデーレ町で敵の猛烈な砲火に釘付けになった。この時、第100大隊は東に大きく迂回して町の北の高地に出て、敵の背後から奇襲攻撃をかけ、わずか3時間で敵を蹴散らした。敵の死者80余名、捕虜65名に対し、第100大隊はわずか4名の戦死と7名の負傷者であった。あわてた敵はジープ21両などを置き去りにして逃げていった。第100大隊は部隊として最高の栄誉である大統領殊勲感状を3度も得ているが、その最初がこの戦いであった。

北イタリアの重要戦略拠点であるリボルノ城の入城に際して、第442連隊を統轄する第5軍司令官のマーク・クラーク中将は、自らのジープのすぐ前に第100大隊を進ませた。それまでの戦功に対する労りの配慮である。また海軍長官ジェームス・フォレスタルや英国王ジョージ6世(現女王の父上)が戦場視察に訪れた時は、クラーク司令官は第100大隊の日系兵を閲兵式に出させた。戦闘の真っ最中だと連隊長は抗議したが、司令官が第100大隊でなければならないと頑として言い張ったため、サカエ・タカハシ大尉が兵の一部だけを伴って参加した。

参謀総長だったマーシャル将軍はその伝記で日系兵の働きについて、こう述べている。

スパーブ(並はずれて優秀)という一言が彼らを言い表して余りあろう。多数の死傷にめげず、まれな勇気と最高の闘志を見せた。ヨーロッパ戦線の彼らについて言葉を尽くすことは不可能というものだ。皆、彼らを欲しがった。

当初、実際に戦線に投入するかどうか軍司令部が迷った日系部隊はいまやすべての司令官が欲しがる存在になっていた。

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