タカタは悪事を働いたのか? 自動車評論家が振り返る日本クルマ史

 

バブルが弾けてからの深謀遠慮

バブル期に分別のつく大人(30代半ば以降か)だった人はすでに還暦を過ぎている。言ってみれば、バブル期を原体験として知らない世代が現在の働き盛りであり、その時に何があったかを知ることなくバブル期以上の大変革期と言われている目下の状況に対応しようとしている。

バブル崩壊が現実のものになろうとしていた1992年前後、バブルの勢いに乗って財テクや拡大路線にった日産やマツダは激変した市場環境に青息吐息、第2期F1活動で我が世の春を謳歌していたホンダも従来路線からの大転換を迫られていた

財テクに走った日産は1999年にルノー傘下で再建を図ることになり、C.ゴーン社長の統治が今年になってようやっと日本人の西川廣人社長に戻された。5チャンネル制の拡大路線が裏目に出たマツダはフォードの支援を仰ぎ、4代に渡ってフォードからのトップを受けることで再生の糸口を掴んだ

バブル期に絶好調のRV路線の夢を断ち切れず、為す術なくダイムラー/クライスラーの傘の下に下った三菱は、長く続いた企業体質が災いし、巡り巡ってルノー/日産アライアンスの枠組みに吸収されている。

ここで思い出されるのがホンダが打った起死回生の一手。久米是志の後を受けて第4代社長の座に着いた川本信彦は、『飯の種』と称したシビック、アコード、インスパイアといった基幹モデルを最整備。主力市場の北米にシフトしたクルマ作りを徹底して、まずは量産の底上げを図った。

「こんなアメリカばかりを向いたクルマを作る会社に入ったんじゃない」。80年代にVTECやタイプRといったスポーツイメージを掻き立てて時代を盛り上げたホンダが、北米市場に適合する大きくて捉えどころのないクルマに地道を挙げる事に苛立つ声を随分聞いた。

川本信彦は第2期F1活動を1980年のF2から現場で指揮を執った総責任者その張本人がバブル崩壊にともなうF1撤退を決断する役回りとなった。レースをやりたくてホンダに入ったと広言して憚らない川本にとって、苦渋の選択だったことは想像に難くないが、経営者としての眼鏡は曇っていなかった。

主軸となるシビック/アコード/インスパイアのプラットフォームをきっちりと固めて設計し、そこから派生するモデルを『群』として考えるプラン。その第一弾が、1994年10月に世にに出るオデッセイ。ホンダ・クリエイティブムーバーの初号機となる3列シートスウィングドアの”ミニバン”だった。

オデッセイは当時の日本人ファミリー層のライフステージに嵌まった

そのプレローンチイベントの模様は今も忘れない。正式発表のおよそ半年前、栃木の本田技術研究所に10人ほどのジャーナリストが呼ばれ、その中で当時42歳の私が最年少だった。同席したのはひと回りほど年長のお歴々ばかり。私は、二人の娘がちょうど中学生という、子供が一緒にクルマに乗ってくれるギリギリのライフステージにいた。

初代オデッセイは、狭山工場で生産されるアコードのプラットフォームを活用し、全高がアコードの生産ラインで流せるぎりぎりのところで和製ミニバンルックを成立させていた。

ユニークだったのはRADというホンダの開発陣の中ではチーフエンジニアを意味するLPLの上に立つゼネラルマネージャーにエンジニアではない広報/営業畑一筋の有沢徹という文系人材を登用したことである。これは川本信彦社長らしい深謀遠慮で、これまでの高回転高出力、とにかく速いのが偉いというホンダ流価値観から外れる事を意図していた。

エンジンは2.2リットルのSOHC。最高許容回転数は6000rpmで、とにかくブン回さない、トルクを厚くして扱いやすくする。誰が乗るか。ファミリーカーとしてのあり方を徹底的に追求し、ホンダ生え抜きのエンジニアには柔らかい発想でピープルムーバーというジャンルを開拓することに力を注いでいた。

ひと通り試乗が済んで、意見交換という段になった。当然のことながら諸先輩方からの発言となったわけだが「走りはホンダらしくキビキビしているんだけど、このスタイリングはどうなんだ? 都会的で若々しいこれまでのホンダ流とは違う。これは難しいのではないか……」大要そのような意見が多くもたらされた。

唯一の例外は私で、直観的に「これはイケる!」と思った。私は1986年以来のメルセデス190を乗り続けていて、日本車で2リットル級のFR4ドアセダンが登場するまで替えないと広言していた。そのこととは直接関係ないが、ちょうど娘が両親とクルマに乗ってくれる最後の瞬間というライフステージに差し掛かっていたことがこのクルマの真価を理解させた。

一人お歴々と異なる意見を吐く若輩に奇異の目を感じたりもしたが、ここは今も変わらぬ生意気を以て良しとする性分である。10月に、半年後当地を襲う阪神淡路大震災の現場となった神戸~六甲山で行われた試乗会でも確信したことだが、これは十分ヒットすると栃木プルービンググラウンドでも思った。

この意見交換の場では時間にかぎりのあることなので、後日FAXでご意見/試乗の感想を頂きたい。広報課長のオファーに応じてみっちり書き込んだことは先方に詳しい話である。

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