タカタは悪事を働いたのか? 自動車評論家が振り返る日本クルマ史

 

和光のデザインスタジオに入ったジャーナリストは限られる

この時の評価が後に効いた。翌年になって箱根ハイランドホテルを舞台に開催された6代目EK型の試乗会。ミラクルシビックというキャッチコピーで登場したそれは、北米市場を意識した4ドアセダン中心のデザインで、それまでのシビックのコアだった3ドアハッチバックは切って貼って取ってつけたような中途半端なものだった。

これはどうにも変ですね

試乗後、LPL(チーフエンジニア)や有沢RAD、広報課長などを前に忌憚のないところを述べると、帰宅後自宅の電話が鳴った

「悦ちゃん、明日夕方時間あるか?」

「はい、何ですか」

「ちょっと和光まで来てくれないか?」

「分かりました」

要領を得なかったが、誘いに乗ることにした。行くと、即座にデザインルームに招き入れられた。「ここは基本的に部外秘だよ。このために役員決済受けたんだ」和光と聞いて薄々察していたが、まさか奥の院に潜入するとは。

驚きはそれだけではなかった。EKシビックには予想した通りワゴンが存在した。オルティアという別名での販売になるというが、他にもCR-V、SM-X、ステップワゴンのモックアップがずらり。いずれもシビックのプラットフォームをベースに展開されたデリバティブ(派生モデル)であり、さらにはこの後にインスパイアをベースに開発された北米オデッセイ(ラグレイト)が登場することになる。

オデッセイは、3代続けて同じコンセプトが守られた試しがないというホンダの流儀がそのまま生きて、3代目/4代目は低床/低重心のロー&ワイドのミニバンという掟破りを展開。現在は群れに紛れるスライドドアの3列シートという普通のミニバンになってしまい存在感は薄れている。

いっぽうで、CR-Vは今ではンダの屋台骨を支えるグローバルな基幹モデルになっているし、ステップワゴンも和製ミニバンの定番として息の長いクルマになっている。

オデッセイに始まるクリエーティブムーバーの成功がホンダの失地挽回を成し遂げる原動力となり、このヒットを足場にグローバル展開する企業風土に安定感をもたらした。日本市場に共用プラットフォまームで様々なアレンジを模索するピープルムーバーのムーブメントをもたらしたのは間違いなくオデッセイのヒットであり、それに続いたミニバン/SUVの連作だった。

オデッセイが登場しなければS2000のデビューもなく第3期F1に打って出る活力も生まれなかった。私は当初から和製ミニバンは行って30%が上限で、その比率の範囲内であるなら安定的にシェアを確保すると読んでいた。結果は、それ以上に普及しファミリーカーの定番となった。登場からすでに四半世紀近くが過ぎ、デビュー年に生れた赤ん坊が成人してクルマをドライブする立場になっている。

生まれた時からミニバンが身近にあり、四角く背の高いスタイリングに違和感を抱くこともない。オデッセイはホンダを窮地から救った立役者であることは間違いないが、日本のクルマシーンを四角い箱だらけにした功罪は厳しく問い質したいところではある。クルマとしての機能や便利さの観点からすると、ファミリーカーとしての使用が中心となるライフステージを生きる人々に取ってこの形態は必然になるのだろう。

私の場合は少し偏屈で、長女、次女が幼稚園に上がる前までは2+2のプレリュードで何の痛痒も感じなかったし、小中高はメルセデス190Eという父親の一分を通すことに異論を挟ませなかった。

子供の便利よりも親のかっこ良さへのこだわりのほうが百倍重要だ。日本中四角いミニバンだらけという退屈な路上や駐車場の景色を残念に思う。皆と同じで安心したり、ご近所付き合いを気にする同調圧力に屈することなくクルマを楽しみたい。難しい話ではないはずなのだが。

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