タカタは悪事を働いたのか? 自動車評論家が振り返る日本クルマ史

 

オイルショックがなかったら日本の自動車産業は潰れていた!?

私が18歳で運転免許を取得した1970年当時、クルマのラインナップはとてもシンプルだった。関東育ちの私の場合、自動車会社といえば横浜発祥にして『技術の日産』のキャッチコピーが効いていたニッサンが近い存在であり、愛知というより三河の地方メーカーという印象を抱きがちだったトヨタは遠い存在と感じた。

クルマの品揃えは、セドリックを頂点にブルーバード、サニーの大中小の間に直前に吸収合併となった旧プリンス自工のグロリア(セドリックのバッジエンジニアリング)、スカイライン、(FFの)チェリーが埋める構図。これに符合するように、トヨタにはクラウンを頂点にマークII、コロナ、カローラ、パプリカが用意された。

当時の通産省(現経済産業省)は、特定産業振興臨時措置法案(特振法)を打ち上げ自動車メーカーは(利幅の大きい)大型乗用車を中心とする3メーカーに集約し、その他存在していた6社には冷遇をもって整理統合を図る方針を持っていた。

結果として特振法は廃案となり、当時新興勢力として通産省と激闘を展開した本田宗一郎率いるホンダは小型スポーツカーから軽自動車N36の大ヒットを経て強制空冷方式DDAC(Duo Dyna Air Cooling system:デュオ ダイナ エア クーリング システム)を引っさげて小型乗用車にようやっと進出した段階。

日産、トヨタと並ぶ存在としては『御三家』と並び称されたいすゞがあり、三菱は重工自動車部からやっと自工として独立したところ。マツダはオート3輪から軽自動車を経てロータリーエンジンに活路を見出そうとしていたし、スバルの富士重工も今はトヨタグループのダイハツと日野もスズキも今よりはずっとちっぽけな存在だった。

世に言う旧通産相の『護送船団方式』を今もって評価する向きもあるようだが、ビジネス感覚を持たない霞が関の官僚が産業振興に実績を挙げたことは一度もなかったというのが現在の定説だ。日本の自動車産業が急成長を遂げたのは、一に圧倒的な優位にあった円安環境であり、1973年の第一次石油危機に伴う小型車の世界的な人気がその分野に強みを持っていた日本メーカーに味方した。

通産官僚の『特振法』が通っていたら今のホンダもマツダもスズキもスバルもなく、日本の歴史も随分異なるものになっていたに違いない。オイルショックとともに世界中に吹き荒れた排ガス清浄化のトレンドも日本メーカーを後押しした。

1973から78年までの70年代の5年間は日本の自動車産業が生き残りを賭けて排ガス規制(昭和53年規制=日本版マスキー法)に取り組み、瀕死の状態に陥りながら克服。それが永遠の成長が信じられた1980年代の快進撃に繋がったわけである。

時代はずうっと続いている

1970年代は、まさに日本が世界の檜舞台に直面し、それを災転じて福とすることに成功した私の人生とも重なることの多いエントリーのライフステージだった。

オイルショックと排ガス規制を克服すると、日本メーカーを待っていたのは国内市場を舞台にした熾烈なシェア争いだった。セドリック/スカイライン/ブルーバード/サニーというヒエラルキーはクルマを持つことを夢見たサラリーマンには、社長、部長、課長、係長といった職制に対応する分かりやすさがあったが、時代はジッと我慢からより豊かさを実感できる多様性に目が向き始めていた

赤いFFファミリアの大ヒットから、大型2ドアスペシャルティクーペ”ソアラ”のブレイク、デートカープレリュードの台頭から日本のサラリーマンの夢として共有されたマークII 3兄弟(チェイサー/クレスタ)の月販4万台という『共同幻想』。さらにより新しさを求めたパワー競争の激化に、日産プレーリーや三菱シャリオで開拓されたマルチピープルムーバーやパジェロやランクルに目が向いたRV路線……。

パワー競争にハイテク技術の競い合いが加わって、ツインカム/ターボ/4WDなど何でもありの盛況を迎える。ここまでは当時の国産車の枠組みとして強固に存在した5ナンバー規格が中心。世界的な小型車ブームもあってそのまま輸出に転じることが許されたが、レーガン米国大統領/サッチャー英国首相が掲げた新自由主義の下、より豊かさを実感することを求める世相はさらなる国際規格に沿うプロダクトを求め始める

「ジャパンアズナンバーワン」がベストセラーになり、世界中の富が貿易黒字として日本に集まり出した1985年。それまで日本に多くの利益をもたらした超円安環境の是正を図るG5(先進5ヶ国蔵相/中央銀行総裁会議)でプラザ合意が成され、現実的には是正された為替レートによって今日に至る日本の”失われた30年”へと導かれている。

この頃(1986年4月)、フリーランスの自動車ライターとして8年なんとかかんとかやって来た私は、未来への投資をかねて少し前から持論として展開していたFRのセダンを価値判断の基準に置くとの考えからメルセデスベンツ190E(W201)を購入している。

その直後から金余り現象から日本経済はバブルに突き進み『シーマ現象』を巻き起こしながら1989年の日本車百花繚乱ヴィンテージイヤー、バブル崩壊、清貧の時代から国内市場から海外現地生産にシフトするグローバリゼーションへと展開して行く。

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