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稲作に不向きな日本を、世界の「コメどころ」に変えた先人たち

我が国では数え切れないほどのブランド米が作られ、その食味は世界一とも言われています。しかし、実は日本の土地は稲作に全く不向きであったことをご存知でしょうか。そんな地でなぜ、私たちの祖先は稲作に挑み続けたのでしょうか。今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』で、その理由が明らかにされています。

コメが鍛えた日本人

日本列島は、そもそも稲作にはまったく不向きな土地であった。このことはもともと熱帯性植物であったコメが東南アジアで栽培されている様子と比較するとよく分かる。

世界をまわって稲作の研究をしている農学博士・渡部忠世(わたべ・ただよ)京都大学名誉教授のチームが東南アジアで撮影したビデオがある。それにはこんな風景が映し出されている。

広大な湿地帯か沼を思わせるデルタの深い水の中に、葦のような丈の長い食物が雑然と生い茂っている。人々は胸まで水につかりながら穂の先をちょん切るようにして刈り取っていたり、あるいは舟で水の上を滑りながら穂先を刈り取ったりしている。

 

これが「天水田」。つまり天然自然のままの水利条件に依存し、天然自然に稲が育つのを待って、できたものだけを刈り取るという素朴な稲作である。
(『コメと日本人と伊勢神宮』上之郷利昭 著/PHP)

これが稲作の原風景であった。東南アジアには、メコン川のような大河が広大な平野を流れており、その流域や海にそそぐデルタ地帯は、そのまま水をたたえた湿地帯になる。稲はそこで自生する。

日本列島のように山が海岸まで迫っているような国土では、川は短くて、流れが急である。人間が知恵を絞り地形を変えて水をコントロールしなければならなかった。

稲作には不向きな自然条件

気候条件から言っても、日本列島はコメ作りには適していなかった。稲は本来、熱帯、亜熱帯の植物である。苗は温度が8度以下になると生育が止まり、零下1度に下がると枯死してしまう。

東南アジアのような気候温暖な地域にこそ適した作物であって、そもそも雪深い新潟とか、東北地方、北海道で栽培できるような作物ではなかったのである。

コメが日本列島に入ってきたのは、最近の研究では縄文時代にさかのぼることが分かってきている。そして日本人は何千年もかけて日本列島に不向きなコメを品種改良しつつ、世界で最もおいしいコメを作り上げてきた。渡辺名誉教授はこう結論づけている。

日本は地形的にも平地が少なく、急峻な川が流れ、気候的にも温帯で、熱帯植物である稲の生育には決して恵まれた条件とはいえなかった。日本人は知恵と努力によってそれを克服して、世界的な稲作国家になったわけです。そういう意味では、劣悪な条件が日本人を鍛えたともいえます。
(同上)

急峻な地形を水田に変えた「灌漑田」

不向きな条件を克服した日本人の知恵と努力の様を具体的に見てみよう。

まず必要なのは、急峻な地形を水田に変える事である。棚田を想像すれば、その大変さがよく想像できる。傾斜地を、ある部分は削り、ある部分は土を盛って、水平にしなければならない。一定の高さごとに区切って、何段もそれを作る。

そして、近くの川から水路を作り田に水が流れ込むようにする。田は何段もあるから、上の田から下の田へと水が流れるようにする。当然、一枚の田は水平に作らなければならないし、水量をコントロールするためには、水路の大きさや傾斜を適正に設計しなければならない。こうして人工的に水を引く田を「灌漑田」という。

灌漑田を作るためには、精密な土地測量技術、土手や畦を作る土木技術などが必要である。また人々が力を合わせて田を造成していくために、共同体の運営技術も発展させなければならない。

逆に天水田が行われているメコン河のような大きな河川の流域では、ひとたび豪雨があると大規模な洪水が起こって、あたりを呑み込んでしまう。灌漑などの人間の努力は消し飛んでしまうわけで、こういう面からも水のコントロールなどはせずに、天然自然のままに稲の自生を待つ、という形にならざるを得ない。

こうして考えると天然の沼地やデルタ地帯に種をばらまいて、稲が育つまで待つという「天水田」と、人間が地形を改良してまで水をコントロールして作る「灌漑田」とは、本質的に異なることが分かる。

高天原(たかまがはら)の支配者となった天照大神(アマテラスオオミカミ)がまず手がけた重要な仕事が、神々を指揮してコメを作ることであった。高天原の「狭田(さなだ)」や「長田(ながた)」に稲を植えたという物語が神話に語られている。

「狭田」や「長田」とは、いかにも山間の狭い土地を段々に水平にならして作った細長い棚田を思わせる。日本によくある真田(さなだ)、長田、さらには山田、谷田などという名字は、まさに稲作のための日本人の水田造成の懸命な努力を象徴しているようだ。

一生懸命」はもともとは「一所懸命」であり、一つの領地を命を懸けて守るという鎌倉武士の時代に生まれた言葉のようだが、その土地で何世代にも渡って水田造成をして来た努力を偲べば、先人たちの「一所懸命」の思いも伝わってくる。

雑草取りの苦行

東南アジアの天水田と、日本の灌漑田では稲の品種も異なる。天水田では主にインディカ米が作られている。これは場合によっては2メートルもの背丈を持ち、深い湿地帯や沼でも容易に育つ。

日本で作られているのは、丈の短いジャポニカ米である。人工の灌漑田ではそれほど深くできないので、背の低い方が適している。

インディカ米は丈が高いので、周囲に雑草が生えても、陽光が遮られて、生育が邪魔されるということはない。ジャポニカ米は丈が短いので、雑草に太陽を遮られて衰弱枯死してしまう。そのために、人間による雑草取りが欠かせない

伊勢神宮には毎朝毎夕、神様にお供えするコメを昔ながらの自然農法で育てている約3ヘクタール(3町)ほどの神田(しんでん)がある。新田の管理責任者・森普(すすむ)氏によれば、育てたばかりの苗を田植えした際には、ちょっとした雑草でも弱々しい稲の栄養を奪ってしまうので、怠りなく草取りをしなくれはならない、という。森氏は言う。

苗が30センチくらいになるまでに、一枚の田圃(たんぼ)で3回は草取りをせんといかんわけですが、田圃の中を這いながら草取りをしていると、苗が目にささって痛いんですよ。昔は、この時期になると、よく目医者が流行ったものです。まさに汗と涙の結晶でした。
(同上)

10月に入って、収穫が終わると、田を深く掘り超して、稲を育む土に新鮮な空気と陽光を吸収させるが、これが同時に雑草を除くことにもなる。この耕耘(こううん)という作業を4、5回繰り返す。我々の先祖は、こういう作業を数千年、続けてきたのである。

知恵をしぼって手間をかければそれだけ収穫が上がる

耕耘の際には、土に栄養となる肥料を施す。今は化学肥料だが、戦前までは鰊粕(にしんかす)や大豆粕(だいずかす)が使われていた。

ジャポニカ米は、肥料を施すことで、一株の稲の茎の数がいちじるしく増え、コメの増収につながる。しかしインディカ米の方は背丈だけが高く伸びて倒れてしまう。インディカ米は肥料をやらない方が、むしろ収量が安定する。

田植えにしても、ジャポニカ米は一定間隔を置いて稲を植えると適度に栄養を吸収して収穫量が上がるが、インディカ米にはそういう性質がない。

伊勢神宮の別宮である伊雑宮(いぞうぐう)の作長(さくちょう)である別所保氏は、こう語る。

コメ作りというのは、知恵をしぼって手間をかければそれだけ収穫が上がり、手を抜けばその分だけ収穫量が減る。台風のような天災は別として、人間の努力にたいして正直な結果で報いてくれる。
(同上)

これはジャポニカ米について言えることで、インディカ米では適当に種をまいて、後は自然天然にまかせて収穫を待つ、という形となる。

灌漑田耕作が、勤勉、真面目、几帳面な民族を作った

我々の祖先はこのような手間をかけて灌漑田を作り、それを毎年毎年耕し、肥料をやり、雑草をとって、少しでも質の良いコメを、少しでも多く作ろうと、数千年、取り組んできたのである。それが日本民族の性格に影響を与えた

京都大学霊長類研究所・元所長の久保田競(きそう)名誉教授は、こう語っている。

…灌漑農業をやるようになると、農業には考えるということが絶対必要になった。水を引くとか、堤防を作るとか、耕すとか、苗を植えるとか、雑草を取るとか、天候や気候のことを考えなくてはいけませんし、そのようにして計画的に、先を見ながら、よく考えながら、手足身体をこまめに動かしてコメ作りをやってきたということが、勤勉さや真面目さ、几帳面さといった日本人の性格を作り上げ、また知的な興味も湧いてくるようになったのではないでしょうか。
(同上)

東南アジアでは、天水田による天然自然に任せたままのコメ作りが行われている、と冒頭で述べたが、実はいくつか例外がある。

その一つ、ベトナムでは灌漑田耕作が行われており、日本の水田のように、田が整然と仕切られ、畝が作られ、苗が整然と植えられ、除草、施肥、耕耘、土壌作りが丹念に行われている。コメは基本的にインディカ米だが、ジャポニカ米のように背丈が低く、相当な品種改良が行われているようだ。

ベトナム人は、東南アジアの中でも勤勉真面目几帳面で、「日本人によく似た民族」と言われている。そう考えると、モンゴル帝国がアジアで侵攻に失敗したのは、日本とベトナムである。さらに両国とも日清戦争や中越戦争で中国を破り、アメリカにも手を焼かせている。

日本人とベトナム人が、似たような性格を持っているのは、似たような灌漑田耕作をしてきたからだと言えるのではないか。

近代工業が花開く土壌を作った稲作文化

欧米で発達した近代工業を日本がいち早く導入し、なおかつ様々な分野で追い越してしまった、という発展には、灌漑田耕作で培われた勤勉真面目几帳面さが大きく寄与している。久保田名誉教授は、こうも語っている。

たとえば、QC(品質管理)活動などは、もともと西欧で開発されたものですが、日本で定着してしまった。農作業はある意味で絶え間ないQC活動の連続のようなものですから、生産性向上、品質向上、粗悪品を出さないといった活動をやることついては、日本人は何の抵抗もないわけです。
(同上)

ベトナムは早くからフランスの植民地とされて近代化が遅れたが、最近は多くの日本企業が脱中国の一環として進出している。筆者もいくつかの代表的な日系工場を訪問したことがあるが、職場は整然と規律正しく技能訓練は熱心に受講するなど、日本的なモノ作りとの相性の良さを感じた。今後、ベトナムの工業は急速に発展していくだろう。

コメが地球を救う

それにしても、日本人はなぜこんな苦労をしてまで、コメ作りにこだわってきたのか。

まず、第1にコメの方が小麦よりも美味しいという点がある。中国とインドでは2,000年にわたり、何億という人間がコメと小麦を食べ比べてきたが、民衆は常にコメを望んでおり、そのためコメは小麦よりも高価となっている。

欧州でもイタリアやスペインではリゾットやパエリアなど、コメ料理がそれぞれの食文化に定着している。人類の歴史を見ても、小麦からコメに転換した民族は少なくないがその逆は存在しない

第2に水田の持つ環境維持機能がある。小麦やトウモロコシなどの単一作物の連作を続けると、土地がやせ衰え、不毛の半砂漠状態になっていく。

それに対して水田は保水機能を持ち、また無数の微生物や昆虫、オタマジャクシ、水鳥の共生するエコ・システムである。日本列島で何千年も水田耕作を続けてこられた理由がこれである。

日本神話では天照大神が孫のニニギノミコトが地上に降りる際に、稲を渡して、これを食物として地上で栽培するように言われた。以来、日本人は先祖からいただいたコメに感謝し、また子々孫々のために、一所懸命に水田を守り広げてきた。先祖への感謝と子孫への思いが日本人を困難な稲作に立ち向かわせてきた第3の理由であろう。

日本人が稲作を通じて克服してきた食糧や環境の問題に、今や、人類全体が直面している。篤農家・星寛治氏は著書『農業新時代-コメが地球を救う』で、こう述べている。

いま、地球上に広がりつつある不毛の砂漠を緑のじゅうたんに、そして黄金の穂波に変えることができれば、飢餓の時代は回避できる。そのときこそ、みずほの国日本の農民が、2,000年かけて蓄積してきた稲作技術、ノウハウのすべてを注ぎこんで、途上国の、いや人類の壮大な実験に貢献すべきだと考える。

文責:伊勢雅臣

image by: Olga Kashubin / Shutterstock.com

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購読者数4万3,000人、創刊18年のメールマガジン『Japan On the Globe 国際派日本人養成講座』発行者。国際社会で日本を背負って活躍できる人材の育成を目指す。

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【著者】 伊勢雅臣 【発行周期】 週刊

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