750年になると、藤原清河が遣唐大使として鑑真招聘の使命を帯びて唐にやってきます。この時点で、阿倍仲麻呂も50歳になろうとしています。中国で官僚になって早30年が経ちました。
流石の玄宗皇帝も、これ以上自分の側に縛りつけようとは考えなかったのだと思います。 この時、玄宗皇帝は阿倍仲麻呂を藤原清河を日本に送り届ける全権大使の役として任命します。唐からの出張扱いにして、全ての金額を負担し、また唐に帰って来れるように道筋をつけて、日本に送り出したのです。玄宗皇帝にしてみれば、阿倍仲麻呂への感謝の気持ちであったのだと思います。それだけ必要不可欠な重臣であったということなのでしょう。
その日、いざ出航となると、一羽の雉が船の前を横切りました。これは、不吉の前兆であるとして出航を一日延期します。この時に望郷の思いに駆られ詠んだ歌が「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」です。帰れない寂しさを詠んだのではありません。三笠の山に出ていた月を、また、直ぐに見ることができるというはちきれんばかりの期待を込めた歌であったと理解します。
翌日、琉球経由で帰ろうとして出帆した船は、嵐に遭い琉球に辿り着くことはできず、そのまま安南(現在のベトナム)にまで流されてしまいます。李白はこの報せを聞いて、仲麻呂が亡くなったと思い「朝卿衡を哭す」の悲しみの詩を歌い上げました。朝衡(ちょうこう、チョウは日の下に兆、朝と同意)は阿倍仲麻呂の唐名です。
仲麻呂はその後長安に戻った後、再び安南に赴任し安南節度使の職を得ます。そして、最後はロ州大都督(ろしゅうだいととく)となります。位階は従二品です。そして、彼は二度と日本に戻ることはありませんでした。
その時代、世界では、中東には巨大なウマイヤ朝、ギリシャには東ローマ帝国、フランスにはフランク王国、スペインには西ゴート王国がありました。後は未開の地です。世界の中で唐は桁違いに大きい領土を有し、最高の文化国家を誇っていました。その国で、皇帝の側近として、そして重鎮として活躍し、唐の文化人を友として生活していたのが阿倍仲麻呂です。
海外で、ここまで出世した人は、日本の歴史上現代に至るまで誰一人として存在していないと思います。言葉、人脈、資本のどれも持たない異国の地で最も成功した、日本一の努力家であったのです。
image by: Hyakunin Isshu Uba-ga E-toki by Hokusai, Wikimedia commons