日本の歴史上、海外でもっとも成功した人物を知っていますか?

 

阿倍仲麻呂が驚異的なのは、次々と出世していき、位階を上げていったことです。官僚になって10年後の731年には左補闕(さほけつ)という侍従で皇帝の過失を補う役につきます。これが従七品上。735年に儀王友、これは玄宗の子供の儀王の陪従(べいじゅう、付き人のことです)のことです。この役職が、従五品下。本来なら、既に四品上がりましたから、慣例では、ここで打ち止めです。 しかし、彼はもっともっと出世し、左散騎常侍(ささんきじょうじ)という皇帝の側近として詔や命令を伝達する職務につきます。まさしく、皇帝の側近中の側近。過去には宦官がこの職を占め国が腐敗したことで有名です。位階は正三品です。いかに皇帝から信頼されていたかがわかります。

皇帝の覚えがめでたすぎ帰国できない仲麻呂

733年のことでした。日本から新たな遣唐使が送られてきました。この時、阿倍仲麻呂は玄宗皇帝に帰国の願いを出しますが、玄宗皇帝はこれを拒否します。733年には左補闕の役でしたが、既に玄宗皇帝の覚えめでたい官吏であったのだと推測されます。 一緒に唐に留学生として渡ってきた吉備真備と玄坊(坊は、日へん)は、この時帰国を許可され日本に帰国しました。

ご存知の通り、吉備真備は右大臣にまで出世した人物です。玄坊も怪僧として晩年には目立った活躍がありませんでしたが、当初は聖武天皇の側近として活躍しました。阿倍仲麻呂も帰国していれば、日本を仏教にすがりつくしか道がないような状態には、していなかったと確信します。

阿倍仲麻呂が、すごい人物であったという証明となるのが、唐で友人となったのが王維であり李白であるからです。類は友を呼ぶ。王維は官僚であり、詩人でもあり、画家でもあり、書家でもあります。ダイナミックに自然を歌い上げるのが特徴で、仏教の影響を受けた人でもあったことから、詩仏と呼ばれています。唐代一の博識芸術家と言っても良いのではないかと思います。

李白は、杜甫と並ぶ中国の2大詩人の一人であり、詩仙として知らない人はいないと思います。白髪三千丈で始まる詩は、高校の漢文の教科書にも載っていたのを覚えています。李白は玄宗皇帝の側近顧問として仕えましたので、この時、仲麻呂と知り合ったのかと思います。李白は元々官僚ではなく、根っからの詩人でした。

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