▼痩せたストーリーによる平板な歴史
こうした著者の姿勢は、歴史解釈の平板化と単純化を招き、歴史と表裏一体のストーリーを痩せ細らせます。
著者が描き出す通史が歴史としての厚みに欠けるのも、歴史上の人物の魅力がステレオタイプな評価に落とし込まれるのも、要するに「物語への愛着」「人間への興味」の希薄さからきているように思えます。
さきほどお話しした「文献主義のジレンマ」と同じです。このあたりは一般の歴史ファンとは逆のベクトルです。
以下にいくつかの例を拾っておきます(カッコ内は筆者の補足)。
†「(平安時代について)この時代、朝廷はかつての逞しさや国際感覚を失っていく。遣唐使を廃止したこともあり、いわば『プチ鎖国』状態となった日本で、王朝の人々はひたすら『雅(みやび)』を愛する貴族となり、『平和ボケ』していったのだ。」(p.66)
†「(本能寺の変について)私は明智光秀が個人的な恨みから起こした単純なもので、用意周到に練られたものではなかったと思っている。なぜなら、その後の行動がきわめてお粗末だからだ。」(p.142)
†「(内匠頭-タクミノカミ-が刃傷沙汰に及んだ理由について)私は単に精神錯乱であったと思う。」(p.188)
†「(不平等条約の日米修好通商条約を結んだことについて)こうして書いていても、当時の幕閣たちのあまりの無知とお気楽さに頭がくらくらしてくる」(p.236)
▼戦後史も単純化しすぎのきらい
以上が私の読書感想文になります。著者が力を入れている近現代史や戦後史は、別の方がいろいろ語っているでしょうから、あえて古代史を中心に感想を綴ってみました。
ちなみに、戦後GHQによる思想洗脳や自虐史観教育、慰安婦問題(朝日新聞批判)などに関する攻撃的な記述は、まさに「ネット言説」の換骨奪胎(かんこつだったい:他人の構想や意見などに新味を加えて独自の表現にすること)にすぎず、いまさら感は否めません。
「GHQ洗脳説」の過大評価と日本人のメンタリティーの過小評価は、二分法による単純化のきらいがあります。日本国民はそんなにバカではないと私は思っています。
もっとも、そのあたりも計算づくで「わざと書いている」可能性があります。ネット上での「百田ファンvs.アンチ百田」の貶し合いを、ご本人は高みの見物で楽しんでいることでしょう。
全編を通じて、私は著者に「日本LOVE」を感じませんでした。(了)
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