京都の古寺「西芳寺」は一面に広がる美しい苔から「苔寺」と呼ばれ親しまれていますが、金閣寺や銀閣寺にも採用されている「後世に多大な影響を与えた庭」が当寺にあることはご存知でしょうか。今回の無料メルマガ『おもしろい京都案内』では著者の英 学(はなぶさ がく)さんが、庭を手がけた仏僧「夢窓疎石」と、その庭の特徴について詳しく解説しています。
苔寺が残したもの
今回は世界遺産にも登録されている西芳寺です。西芳寺と言われてもピンとこない方が多いかも知れません。通称「苔寺」です。奈良時代、まだ都が京都に移される前の天平年間(729~749年)に聖武天皇の命で行基が開山した古刹です。平安時代には、真如親王や藤原親秀が住んでいたと伝えられています。
この寺が有名なのは1339年に夢窓疎石が禅宗寺院として復興した頃に遡ります。夢窓疎石は、庭造りを手掛ける石立僧の始祖と言われています。全国各地を歩き回り沢山のお寺の庭を手がけています。疎石は77歳まで生き7代の天皇や上皇から国師号を賜りました。また、一万人を超える弟子を育て足利尊氏の政治顧問を担当したことでも有名です。
疎石は西芳寺の他に、京都では天龍寺、等持院、臨川寺、また鎌倉の瑞泉寺、建長寺など数多くの作庭を手掛けています。
疎石の説話に「師は煙霞にあり」という言葉があります。煙霞は自然のことで自然にこそ目指すものがあるという意味です。また「山水には得失なし、得失は人の心にあり」という言葉も残しています。自然そのものに損得や利害はない、それらは人の心にあるものだという意味です。損得や利害の心を捨て山水を修行の手立てとせよと説いているのです。疎石にとって作庭は修行であり、人々を仏法に導く手立てだったようです。
西芳寺には約130種の苔が境内を覆っています。緑の絨毯を敷き詰めたような美しさから苔寺とも呼ばれるようになりました。
苔寺の庭園は上段の枯山水と下段の池泉回遊式から成っています。黄金池は「心」の字をかたどっています。上段は裏山の古墳の墓石を利用した荒々しい石組の庭で、下段は水と苔による清らかな庭です。この庭園は日本庭園史上重要な位置を占め、後世の庭園に大きな影響を与えました。
苔寺の黄金池には、朝日ヶ島、夕日ヶ島、鶴島と呼ばれる3つの中島が浮かび橋でつながれています。池を取り巻くように湘南亭、潭北亭(たんぼくてい)、瑠璃殿、西来堂、少庵堂などの建物が配されているのが特徴です。庭の下段と上段は苑路(遠路)で結ばれていて、向上関と呼ばれる門を設けて結界としています。向上関をくぐり右側には石組みが配されていて龍淵水(りゅうえんすい)と呼ばれる泉が湧いています。その近くには疎石が座禅を組んで修行したという座禅石があります。さらに登っていくと洪隠山の麓の上段の庭に至ります。庭には指東庵(しとうあん)と呼ばれる座禅堂があります。
上段の枯山水に使われている石組みは、裏山に散見されていた横穴式古墳が山崩れで露出したものを転用したものと見られています。もともと下段に西方寺が、上段に穢土(えど)寺があり、疎石が合弁して作庭したと伝わっています。西方寺は西方浄土、穢土寺は穢れた不浄の場を意味し無縁仏の投げ込み寺だったそうです。天国と地獄で構成されたあの世で、仏教の宇宙観である須弥山世界を再現し、訪れる人々に他界を体験させ仏に導こうとしたとされています。
この上下二段構造はその後の日本庭園の一形式となります。金閣寺、銀閣寺、桂離宮、修学院離宮などはその影響を受けたものとして有名です。
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