その内容は「母親に同情するのは間違い」というものでした。
本当に育児は大変で、母親たちはみなギリギリの状況で子育てをしている。心も体も疲弊し、それでも「我が子」のために歯を食いしばって子育てしている。
「子どもさえいなければ」という感情に襲われることもある。そんな状況下でも理性を取り戻し、「私、なんてことを考えてしまったんだろう」と反省し、子供に寄り添っている。
なのに、その「一線を超え子に手をかけてしまった母親」と「今も苦労して頑張っている母親」を同じ天秤にかけるのはおかしい―――。
そういった内容のメールがいくつか届きました。
そして、「実刑判決は妥当だということをもっと世間に訴えたいので、賛同してください!」「母親を罰するのは当然と言ってください!」「子どもの命を軽んじすぎていると母親を支援する人を断罪してください!」「署名活動を批判してください!」と、私に発信して欲しいと言うのです。
私は…正直、とてもとても複雑な気持ちになりました。だって、私は件のコラムでは判決の是非については、いっさい触れていません。事実関係を伝えたのみ。そして、メールをいただいた今も、判決に関する私見を述べるつもりはありません。
メッセージをくれた方たちには申し訳けないけれど、期待にお応えするような行動を取るつもりはないのです。なので、今回、こういった形でとりあげた次第です。
ただ、メッセージをくださった人たちの気持ちも痛いほどわかる。誰だって「自分だってこんな苦しい思いをしてるのに、必死で耐えてる。なんで耐えられなかった人が同情されるのか?」という気持ちになることはあるでしょう。
問題が複雑になればなるほど、個人の裁量を超える事態になればなるほど、最後は「個人の問題」に帰結させ、「正義競争」に流れがちです。
でも、そんな社会の先に光はあるのでしょうか。
だからこそ日経のコラムに書いた「そもそも」の問題を考えて欲しいのです。
減刑を訴える人も、実刑を妥当とする人も、それぞれの立場で「子供がかわいそう」と繰り返します。