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京都で感ずる平安貴族の香り。源氏物語にも描かれた葵祭を訪ねる

京都最古の祭と言われる葵祭(あおいまつり)。源氏物語にも賑わいの様子が描かれているという、1,500年もの歴史があるお祭りとはどんなものなのでしょうか。今回の無料メルマガ『おもしろい京都案内』では著者の英 学(はなぶさ がく)さんが、「現代に蘇る平安絵巻」を感じられる、葵祭の魅力と歴史を紹介しています。

葵祭の魅力

葵祭は1,500年ほどの歴史がある京都最古の祭で三勅祭の一つです。勅祭(ちょくさい)は、天皇の使者が派遣されて行われる神社の祭祀で、とても由緒ある祭りです。ちなみに三勅祭は、葵祭の他は石清水八幡宮の石清水祭(京都)と春日大社の春日祭(奈良)です。葵祭は祇園祭時代祭と並ぶ京都三大祭のひとつでもあります。

葵祭の様子は源氏物語にも描かれているほどで平安時代には既に有名でした。祭そのものは賀茂社の例祭で五穀豊穣を願うものです。5月に入ると連日のように流鏑馬や競馬会などいくつもの儀式が上賀茂神社と下鴨神社の両方で執り行われます。その様子は全国的にニュースでも取り上げらていますよね。中でもとりわけ有名なのは5月15日に行われる路頭ろとうの儀です。それはまさに平安時代の貴族の時代絵巻を眼の前で見るかのごとく美しく厳かなものです。

毎年5月15日に総勢500名を超える時代装束に身を包んだ人の行列が練り歩きます。

経路は京都御所から下鴨神社を経由して上賀茂神社までです。庶民の祭りの代表でもある祇園祭などに対して賀茂氏と朝廷の行事として始まった葵祭にはその成り立ちに大きな違いがあるのです。

歴史を少し振り返りましょう。

一説によると飛鳥時代欽明天皇の世、567年ごろから始まったと伝えられています。当時国内で風雨が激しく五穀が実らなかった時に4月の吉日に祭礼を行うと、風雨は治まり五穀が豊かに実り国民も安泰になったといいます。古くは「賀茂祭または北の祭り」(石清水祭が南の祭りと言われていたのに対し)と言われていました。

戦国時代に賀茂祭は中断してしまいます。1467年の応仁の乱により約100年ぐらい京都が焼け野原となり祭りが再開されたのは200年後の江戸時代でした。徳川家の家紋(葵の御紋)が三つ葉葵だった事もあり、幕府は神紋が双葉葵の賀茂社に多大な援助をして祭りを再建しました。そのことから葵祭と呼ばれるようになりました。江戸時代の元禄年間以降です。当時祭りが再興された時に牛車や勅使、牛車など隊列の全てに葵の葉を飾るようになってからその名が定着したようです。

葵祭の凄いところはあの源氏物語に祭りの様子が描写されていることです。源氏物語の「」の場面で葵祭の斎王列を見物しようとする光源氏の妻葵上が描かれています。葵上と六条御息所(みやすどころ)=(光源氏の若い頃の恋人)の(牛)車争い。葵の上の牛車と六条御息所の牛車の列が祭りの場所取りのために大ゲンカになってしまう場面はあまりにも有名です。

そして、その事件から10年後に光源氏と紫上むらさきのうえが桟敷席から葵祭を見物する場面もあります。そのようなことを思い描きながら隊列が通り過ぎるのを見物すると1000年以上前の時代がよみがえることでしょう。まさに現代に蘇る平安絵巻です。

この路頭の儀の行列は本列と斎王代列から成ります。本列は馬にまたがった古来の日本の役人扮する隊列や牛車から成る17の隊列です。その後ろには、女官や巫女に扮した隊列や斎王代を載せた腰輿(およよ)など6つの隊列から成る斎王代列が続きます。新緑の緑に映える都大路を色鮮やかな装束に身を包んだ隊列が厳かにゆっくりと進みます。その姿はタイムマシーンに乗って平安時代に遡って生で見ているような感覚です。

image by: Kobby Dagan / Shutterstock.com

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【著者】 英学(はなぶさ がく) 【発行周期】 ほぼ週刊

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