親が「部屋のカーテンを開ける」という行為をする際には、「起きなさい」という声はいらない。とりあえず開けるだけである。そうしないと、子どもの中に例の不快感がこみあげ、なぜか親が恨まれる対象になる。ただ、朝だから当然部屋のカーテンを開けただけ、という体をとることが肝要である(後は、放っておけばその内自分でのそのそ起きる。起きなかったら、遅刻して本人が気まずい思いをするだけである。痛い思いも大切な学習である。ここが我慢比べの肝である)。
起きた後の動きも大切である。トイレに行って用を足したら、洗面所で顔を洗う。あるいはシャワーを浴びる。コーヒーを飲む。簡単な体操をする。
何でもいいから、ルーティンでリズムを決めてしまう。勝手に覚醒する状態を習慣化できればいい。
親が子どもにできることといったら、環境づくりだけである。直接「起きなさい」と声をかけることは、最後の最後の下手の最終手段である(「布団を引き剥がす」は、実行力を行使しているという点でさらに酷い下手の手段である、と自覚し敗北を覚悟した上で、断固実行する)。
学校のあらゆる教育でもいえる。ルーティン的に訪れることに対し「〇〇しなさい」の命令を直接与えないと動かないのでは、子どもは育たない。
「チャイム問題」もこれにあたる。要は、パプロフの犬よろしく音に反応するのではなく、自分で時計を見て動けるようにしよう、ということである(チャイムや放送は「教室に戻りなさい」の外的サインであり、命令である)。
止むを得ず実行力を行使した時は、こちらの敗北宣言である。
それをしやすい環境を整える。自主自立や、自治を考える上での基本中の基本である。
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