阿部勤也が言う「日本の個人は、世間向きの顔や発言と自分の内面の想いを区別してふるまい、そのような関係の中で個人の外面と内面の双方が形成されているのである。いわば個人は、世間との関係の中で生まれているのである。世間は人間関係の世界である限りでかなり曖昧なものであり、その曖昧なものとの関係の中で自己を形成せざるをえない日本の個人は、欧米人からみると、曖昧な存在としてみえる」との「曖昧な日本」は、「空気」に支配されると、われわれ自身が何に操られているのかわからなくなってしまう可能性もある。
だから、山本が「相対化している世界というものが理解できない」と断言するところを再度注意深く考えたい。新型コロナウイルスに対しては明確な説明と傍証や論証によって政策は説明されるべきだが、空気だけを作り出されているような印象だ。再度、日本社会を自覚するには山本の空気を再検討したい。
「われわれの社会は、常に、絶対的命題をもつ社会である。『忠君愛国』から『正直ものがバカを見ない世界であれ』に至るまで、常に何らかの命題を絶対化し、その命題を臨在感的に把握し、その“空気”で支配されてきた。そしてそれらの命題たとえば『正義は最後に勝つ』『正しいものはむくわれる』といったものは絶対であり、この絶対性にだれも疑いをもたず、そうならない社会は悪いと、戦前も戦後も信じつづけてきた。
そのため、これらの命題まで対立的命題として把握して相対化している世界というものが理解できない。そしてそういう世界は存在しないと信じ切っていた。だがそういう世界が現実に存在するのである。否、それが日本以外の大部分の世界なのである」
私たちは他者とともに生きていることから考えたい。
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