民族多様性も単に民間レベルに留まらず唐の宮廷に重用される者もいた。特に胡人と呼ばれた、西域のソグド系の人たちは馬の扱いに長けていたことや隊商交易に精通していたこともあり、軍事や商業部門で大いに活躍した。それが行き過ぎて終には安史の乱が起こってしまうのである。この乱にその名を残す首謀者安禄山と史思明はともにソグド系である。
因みにソグド人は出身オアシス都市によってそれぞれ漢字姓が付けられていた。安はブハラ、史はキシュ、康はサマルカンド、何はクシャーニャ、石はタシュケントなどであり、まとめて九姓胡と言われた。これらの姓がマイナーなのは、この安史の乱の後、ソグド人に対する凄まじい迫害が行われた結果、そのほとんどが国を追われたからである。
奈良朝の日本にも来ている。鑑真とともに戒律を伝えるためにやって来た弟子の安如宝である。ソグド人は印欧語族インド・イラン語系だから若干肌は浅黒く容姿は白人に近い。光彩の色は碧だったかもしれず、奈良の都ではさぞかし目立ったことであろう。
一方、日本もちゃっかり遣唐使船を送っており、多くの留学生が盛唐の文化を奈良朝、平安朝にもたらした。終に帰国は叶わなかったけれど阿倍仲麻呂もその一人だ。彼は唐名・朝衡として玄宗に一生仕え、最後は安禄山と同じ官職(節度使)まで出世した。西安市(旧長安城)の東側、興慶宮跡にその記念碑(紀念碑)がある。
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