全世界が失笑。あの習近平政権が主張した「中国的民主」につける薬

 

中国には「鹿を指して馬となす」という有名な故事があります。秦の始皇帝が亡くなり、権力を一手に握るようになった宦官の趙高は、始皇帝の遺言を改ざんして傀儡皇帝を祀り上げますが、朝廷の臣下が、この傀儡皇帝の言うことを聞くのか、それとも実質的な最高権力者である自分の言うことを聞くか、テストを試みます。

趙高は皇帝に鹿を献上しましたが、そのとき「これは馬です」と偽ります。どうみても鹿ですから、皇帝は「鹿ではないか」と反論しますが、趙高はあくまで「馬です」と譲りません。そこで居並ぶ臣下に馬か鹿かで意見を言わせたところ、趙高の権勢を恐れるほとんどの臣下が「馬にまちがいありません」と答えたということです。もちろん趙高は、自分の権勢を恐れずに「鹿です」と本当のことを答えた臣下を後に処刑しました。

この故事が「馬鹿」の語源になったわけですが、「中国的民主」という言葉を聞くと、この故事を思い出してしまいます。「独裁を指して民主となす」というわけです。

中国共産党は人民こそが中国の主人公であるとして、毛沢東時代には「人民に奉仕する」というスローガンがさかんに叫ばれました。しかし中国共産党内部では人民に奉仕するどころか、熾烈な権力闘争と腐敗が繰り返されてきたというのが歴史の事実です。

「人民」というのは傀儡皇帝と同じお飾りであり、すべての権力を握っているのは中国共産党=趙高であり、自らの権勢の維持のために独裁を指して民主だと言い募り、人民を騙しているわけです。「人民が主」なのではなく中国共産党が「人民の主」であることを「民主」と呼んでいるのです。

ちなみに「人民」というのは「国民」とは違います。ヨーロッパで「人民」は貴族などの特権階級以外の階級を指しましたが、中国でも中国共産党が規定するところの労働者階級を「人民」と定めました。資本家やブルジョア階級は「人民の敵」でしかありません。要するに、中国共産党に従う者は人民ですが、これに反する者は人民ではないのです。だから、さまざまな価値観や複数政党で構成される国民ではなく、あくまで中国共産党支配に従う者たちが「人民」なのです。

だから中国共産党支配に楯突いた天安門事件の学生や劉暁波は人民ではなく、彼らの意思は人民の民主とは関係ないとされ、無視されるわけです。自分たちに楯突く、あるいは都合の悪い意見は「人民民主」の範囲から除外するのですから、どう考えても独裁なのですが、これを「中国的民主」という言葉で言い換えているだけに過ぎないのです。

このような本質をまったく正反対に捻じ曲げて規定するということが、中国には多々あります。たとえば文豪の魯迅が主張した中国人の「精神的勝利」というのもその一つでしょう。地主や軍閥などの支配者によって虐げられながらも、これに抵抗せず何も勝ち取ることなく、自らのプライドを保つために「精神的には勝っている」と自らを慰める態度のことです。

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