プーチンが先か、習近平が先か。独裁者が国民から見捨てられる日

 

その他、アメリカとの関係も悪化の一途をたどり、オバマ政権の時代には「2つの大国関係」を主張していたもののオバマ大統領には無視され、さらにトランプ政権では経済安全保障上の脅威として認識され、アメリカからファーウェイの締め出しなど、米中貿易戦争を起こされてしまいました。バイデン政権においても、この流れは変わらず、さらにロシアのウクライナ侵攻を擁護していることで、西側諸国の反発を招いています。

アメリカの調査機関ピュー・リサーチ・センターが2021年6月に行った調査では、先進17カ国での習近平に対する信頼度は過去最低水準で、日本の習近平への不信感が86%と最も高く、オーストラリア、フランス、スウェーデン、カナダでは、半数以上が習近平を全く信頼していないと回答したそうです。

中国習主席への評価、引き続き過去最低 米国は回復=先進17カ国調査

このように、習近平の外交政策は失敗だらけなのです。戦争こそしていませんが、「気がおかしくなったプーチン」と同様の失敗を重ねてきたわけです。

あまりに習近平政権の中国が世界各国から嫌われるため、習近平もさすがに焦ったのか、2021年5月、「信頼され、愛され、尊敬される」中国のイメージを作り、友好国の和を拡大するべきだと共産党幹部に伝えています。

習主席、「愛される」中国外交を指示 友好国増やすため

それはともかく、よく知られているように、プーチンが育った家庭は、父親は機械技師、母親は工場で働き、非常に貧しい家庭でした。その後、1975年にKGBに入りますが、85年に同じく共産主義陣営の東ドイツのドレスデンに赴任し、階級は中佐止まりと、評価はあまり高くなかったようです。

しかし官僚としての能力は高く、それをエリツィン大統領に認められ、エリツィンの後継者に選ばれたことで、一気に光が当たりました。当時、エリツィンの家族や側近の汚職疑惑を捜査していた検事総長が、売春婦を買っていたというスキャンダルを公にして、失脚させたと言われています。

こうしてエリツィンの信任を得たプーチンは、2000年に大統領に就任、以後、任期の問題で首相と大統領を交互に行い、権力を維持してきました。

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一方、習近平は八大元老で中央政治局委員や全人代常務委員会副委員長などを歴任した習仲勲の息子として生まれた、いわゆる太子党の一人です。もっとも、習仲勲は文化大革命で失脚させられ、1978年まで16年にわたる拘束を受けたことで、習近平も1969年1月から7年間ものあいだ、陝西省延安市延川県に下放されるという不遇の時代がありました。

その間、全国統一入試試験は中止されていましたが、模範的な勤労者・農民の推薦入学制度を利用して、1975年に清華大学に入学します。一説によればこれは裏口入学だったとも言われています。その後、父親の復権にともない、コネで人民解放軍に入隊、軍最高幹部の秘書となりました。

1998年から2002年にかけて清華大学大学院過程に在籍し、法学博士の学位を取ったことになっています。しかし、このときの論文は代筆だったという疑惑が持ち上がっています。

とくに取り柄も功績もない習近平でしたが、共産党青年団派の胡錦濤と江沢民派の権力闘争の中で、江沢民派に取り入り、出世の糸口を掴みます。2006年、江沢民派の陳良宇上海市党委員会書紀が汚職の疑いで失脚すると、胡錦濤派の韓正が代理書紀に就任しましたが、江沢民派の巻き返しで、2007年に上海とまったくゆかりのない習近平が上海市党委員会書紀に就任することになります。

こうして江沢民派は胡錦濤の後継人事を潰し、習近平を持ち上げていくことになり、2012年11月の第18期1中全会で総書記、翌2013年3月に国家主席の地位に上り詰めたのです。ある意味、政争の渦巻くなか、コネと幸運でトップに上り詰めたといっていいでしょう。

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