WBC開催前だから知っておきたい。監督として才能を開花させた奇妙奇天烈な「伝説の男」

 

選手ではなく、監督として才能を開花させたレジェンド

ステンゲルは現役の頃は外野手としてメジャーリーグのいくつかの球団を渡り歩きましたが、スター選手ではありませんでした。監督として才能を開花させたのです。

前記、ピッチャー交代ルールはステンゲルがあまりにもマウンドに行くために作られたと言われています。彼は1949年から1960年までの12シーズンの長きに亘って名門ニューヨーク・ヤンキースの監督を務め、ワールドシリーズ5連覇を含めてリーグ優勝10回、ワールドシリーズを7回制覇しました。今日、当然のように行われているツー・プラトン・システム、すなわち相手ピッチャーが左投げは右投げかよって、バッテイングオーダーに右バッター、左バッターを並べることを始めたのもステンゲルでした。

ステンゲルが人気を誇ったのはヤンキース監督時代の圧倒的な実績と手腕ばかりが理由ではありません。「道化師ステンゲル」という愛称が示すように、彼は試合中、ユーモラスなパフォーマンスを行い、ファンにサービスをしていたのです。

野球帽の中にスズメを隠しておいてホームプレート上で脱いで飛ばす、代打を観客のリクエストで決める、球場が暗いと懐中電灯でピッチャーにサインを出す、雨が強くなった為、アンパイアに中止を求めようと傘を差して行く、等々、ステンゲルは監督とは思えない奇妙奇天烈な行動でファンを沸かせました。

彼はヤンキース監督退任後、ニューヨークの新興球団メッツの監督に迎えられました。創設間もないメッツは他球団のプロテクトが外れた選手の寄せ集めとあって、エラーとミスは日常茶飯事、さすがのステンゲルもチーム力をアップさせることはできませんでした。

監督であった4シーズンともリーグ最下位に終わります。ヤンキースで築いた栄光が地に堕ちたと思いきや、そうはならず、ステンゲルの人気はかえってアップしました。メッツを退任したのは成績不振の責任ではなく、シーズンオフに骨折して入院したのをきっかけに、75歳という高齢を考えて辞めたのでした。

1965年のシーズン、メッツは最下位にもかかわらず観客動員は伸び、ホーム球場の興行成績は両リーグを通じて3位でした。メッツを上回ったのはワールドシリーズを制したロサンジェルス・ドジャースと初めてドーム球場を本拠としたヒューストン・アストロズだけだったのです。スター選手不在だったメッツにあって、ファンはステンゲル目当てに球場に押し寄せたのでした。

ステンゲルはヤンキースには優勝を、メッツには熱いファンをもたらし、両チームで、彼の背番号、「37」は永久欠番となっています。

選手としては活躍できなくても大監督として球史に燦然と輝くケーシー・ステンゲル、まさしく適材適所、人生七転び八起き、逆転人生の見本ですね。

image by: Shutterstock.comBaseball Digest, front cover, October 1953 issue., Public domain, via Wikimedia Commons

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