小池百合子を「維新候補への対抗」として呼んだ自民の計算
例えば小池百合子氏の場合はどうでしょうか。小池氏を弁士として引っ張ってきた二階俊博氏への評価はともかく、小池氏はここで自民党に「恩を売る」ことで、復党による国政復帰の目を残したと言えなくもありません。都民ファーストは所詮は、都市の「納税者の現状不満」の受け皿であり、有権者はそこに国政を託そうとは思っていないことは「希望の党構想の失敗」で証明済です。ですが、小池氏にはウルトラCとして自民への復党という可能性を模索している可能性があり、二階俊博氏としては、その小池人気を派閥の衰退を救うために利用しようとしているかもしれません。
更に見方を変えれば、ここで小池氏を「維新候補への対抗」のために弁士として引っ張ったことで、小池氏が維新と合流することを防止するという効果を、自民党サイドが計算したという可能性もあると思います。
それはともかく、どう考えても、他の補選は全て勝ったこともあり、岸田氏の党内基盤は高まったと考えられます。肝心の和歌山での敗北は、岸田氏がテロに遭遇し、それでも「ひるむことがなかった」ということで、ほぼ帳消しになっているようです。ということは、解散風はやや加速したと考えられます。
問題は、こうしたエピソードのほとんどは、地方自治とも間接民主制とも無関係な、一種の印象論だということです。小選挙区制度は動いていても、政権担当可能な政治勢力を2セット持たないことで、二大政党制は成立していません。ですが、一党独裁を嫌い、権力には「お灸を据える」ことを好む有権者、特に都市型の有権者の票は与党には取りづらいわけです。そこで、選挙に負ければ党内で「看板を変える」というプロセスにおいて、ほとんどの判断は印象論で左右されるわけです。
政策でもイデオロギーでもなく、そこでは印象が大きくモノを言います。だからこそ、岸田総理は「負けるかもしれない和歌山1区を見捨てない」ために、和歌山入りし、そこで「自民党の強い農林水産票」を固めるために漁協に行き、そこで「印象を高めるため」にパフォーマンスをしたり握手をしたりしたわけです。その全てにおいて政策の選択は余り重要ではなかったのです。そうしたメカニズムの結果として、選挙期間中だけはどうしても政治家は「危険を冒して」でも「印象アップのため」には握手などをしなくてはならないし、演説会参加者へのセキュリティチェックは難しいとされているのです。
その結果として、危険な人物が凶悪犯罪を完遂するスレスレまで迫るという機会を与えてしまった一方で、岸田氏は被害者の正義を獲得して、和歌山1区は落としたものの人気上昇に成功しました。岸田氏の感じたであろう恐怖や、それを乗り越えた統治への意欲には敬意を表しますが、とにかく一連のプロセスの全てが政策判断ではなく、民意における印象を獲得するゲームとして戦われているのは間違いないと思います。
この全体は、自由という価値観、そして民主主義という制度のあり方として、決して強靭とは言えないと思います。そこを暴力に付け込まれたという側面も厳しく考えていかねばならないと考えます。
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