日本人の多くが学校の授業で習って覚えた「源平合戦」のエピソード。しかし、私たちが知っているのは「間違った解釈」である可能性もあるのです。今回のメルマガ『歴史時代作家 早見俊の無料メルマガ」』では時代小説の名手として知られる作家の早見俊さんが、早見流の源平解釈を紹介しています。
源平合戦の早見流解釈
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。婆羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」
ご存じ、平家物語の冒頭の一節です。日本全国の半分、三十余りの知行国を有し、高位高官に就き、「平家にあらずんば人にあらず」と公言した平家が一門の総帥清盛死後、僅か四年で滅んだ様を物語っています。
平家滅亡に関し、以前は専ら天才武将源義経の軍略、意表をついた奇襲で平家に勝利した、と語られてきましたが、昨今では異論を含めた様々な説が発表されています。
清盛死後の平家に関しても貴族化した弱小武士団、という見方ではなく、日宋交易で培った水運によって西海を勢力下に置いた強大さが語られています。
見直される平家に対して義経の評価は下がっています。一ノ谷の戦いにおける鵯越えの逆落としは義経ではなく、摂津国を地盤とした武将多田行綱が行った、とか壇ノ浦の戦いは義経より範頼の働きが大きかった、とか。
「判官贔屓」という言葉が物語るように、平家討伐の大功を挙げながら兄頼朝に疎まれ、信頼した奥州藤原氏の裏切りで最期を遂げた悲劇のヒーローへの肩入れが義経の過大評価に繋がったのかもしれません。また、牛若丸の頃の紅顔の美少年ぶりも義経人気に寄与してきました。
評価が下がると残酷なもので、義経の能力、人柄はもとより容貌までも文句をつけられます。美少年など虚構、実際は醜男だった、という説が流布しました。筆者は義経の武将としての能力、武功を批判するより先に義経醜男説が出てきたと記憶しています。
古今東西、歴史上の人物評価は時代と共に変化しますね。
筆者は義経が優れた武将だったのが愚将だったのかはわかりません。ただ、義経には義経と同じく軍略の天才性を謳われる織田信長と面白い共通点があります。壇ノ浦の戦いで義経は平家方の船を操る水夫を弓で射殺させました。当時、水夫を狙うのはタブーであったのですが義経は平然と破ったのです。
信長も長篠ノ戦いにおいて、鉄砲組に武田の騎馬武者の馬を狙わせています。馬を殺すのもタブーでした。タブーを平気で破った義経と信長、天才は常識に囚われない、ということでしょうか。
ちなみに、「平家にあらずんば人にあらず」という平家の奢りを象徴する言葉を残したのは、清盛ではなく平時忠でした。時忠は清盛の妻時子の弟、つまり清盛の義弟です。平家一門の傲慢を代表した時忠は世渡り上手でした。
壇ノ浦の戦いの後、平家一門が入水自殺を遂げたり、捕えられて処刑されたのを横目に臆面もなくサバイバルを図りました。義経に取り入る為に娘を嫁がせようとします。しかし、義経が頼朝と不仲になると、能登に配流され同地で死去しました。
一門の滅びを目の当たりにし、自身も配流の境遇となった時忠は、「平家にあらずんば人にあらず」と豪語したことを悔いたでしょうか。
筆者は後悔していなかったと思います。栄耀栄華を極め、時忠は、「平大納言(へいだいなごん)」とか、「平関白」と称されました。彼は権大納言には任官していますが、関白には成っていません。清盛の威光により、それほどの権勢を誇ったということです。
一時とはいえ、得意の絶頂を味わったのですから、「平家にあらずんば人にあらず」は本音であり、思い上がりではなく事実と認識していたでしょう。配流地でもかつての栄光を自慢していたのかもしれません。それくらい面の皮が厚くなくては、あんな台詞を言えませんし、我が身の保身の為に娘を差し出しませんよね。