ビジネスシーンや日常生活で誰しもが利用するメモ。しかしそんな「メモ」について、深く思いを巡らせた経験があるという方は決して多くないというのが実情ではないでしょうか。今回のメルマガ『Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~』では、自身を「メモ魔」という文筆家で多くのビジネス書を世に送り出している倉下忠憲さんが、メモについて考察。まずその第一歩として、「メモの汎用性」を解説しています。
※本記事のタイトルはMAG2NEWS編集部によるものです
なぜメモ論なのか
これからメモについて考えていこう。
それにしても、なぜメモについて考えるのだろうか。そんなありふれた行為、もっと言えば、あまりにも当たり前すぎて「技術」と呼ぶのすらはばかられるような行為について改めて検討する理由はなんだろうか。
一つには、私がメモ魔だからだ。ちょうど18歳くらいの頃からポケットにミニノートを忍ばせてさまざまなことをメモしてきた。学業であれ、執筆であれ、家政であれ、どんな場面にもメモは登場する。そうしたメモを少しでも「向上」したい思いが私にはある。もっとうまくメモしたい、メモを使いたい気持ちがあるわけだ。
本連載の探究は、そうした自分の「欲求」が一つの原点になっている。
しかし、それだけではない。メモについて改めて検討するもう一つの理由は、それがありふれた行為であり、当たり前すぎて「技術」と呼ぶのすらはばかれるまさにその点にある。あまりにも日常的なものは、技術や技能として認識されない。それは分析・向上・錬成といった視点で見られていないことを意味する。
たとえば呼吸だ。私たちはごく普通に呼吸をする。特に問題はない。毎日を問題なく送れている。しかし、そこに技術的介入の余地がまったくないのかと言うと、それは違うだろう。たとえば深呼吸は立派な呼吸の技術である。長期間の訓練は必要ないにしても、意識的な動作の促しはあった方がいい。
同様に、過呼吸に陥ってしまったときは、ビニール袋などに口を差し込み、酸素の吸入を意識的に減らすことが有用になる。これも意識的な介入であり、ある種の工夫だ。
私たちは日常的に問題なく呼吸はできているが、しかしそれ以上のものが何も存在しないわけではない。しかし、日常的に問題なく呼吸できているがゆえに、それ以上のものを模索する視線は自然には発生しない。なんらかの問題が生じたときにはじめて着目される構造になっている。
おそらくメモもそうではないか。私たちはたいていのメモを問題なくこなせる。だから、メモを重用していると共に軽視もしている。そこにある深みを見つめようとはしていない。技術的な発展の余地が、イメージの中においても疎外されているのだ。
だからこそ、メモについて改めて考えてみようと思う。
取るに足らない、日常的で、当たり前な行為だからこそ、そこにある深みを捉えるために考えを進めていきたい。
この記事の著者・倉下忠憲さんのメルマガ
■メモの汎用性
さて、メモについて書かれたノウハウ書はたくさんある。どんな規模の書店でも、1、2冊はメモ術の本は見つけられるだろう。メモは汎用的な存在なのだ。
あるいは本を引くまでもない。
私がコンビニで店長をしていたとき、いかにも「アルバイトするのは始めてです」という大学生が新人スタッフとして入ってきたら、まずメモ帳とペンを渡していた。企業の新人研修でも同じような場面は多いだろう。「同じことを聞き返さなくてよいように、言われたことはメモしておきましょう」とテープコーダーのようにくり返しアドバイスしている人もいるはずだ。電話を受けたときの伝言メモの書き方なんかも、きっと最初のうちに教えるはずである。
仕事の技術(仕事術)において、メモはもっとも基礎的なものとして扱われている。そういっても過言ではないだろう。
他にもある。たとえば、知的生産や発想の技術においても、やはり「メモすること」は重要だと説かれている。なにせ私たちの脳は忘れっぽいので、いろんなことをひょいひょい忘れてしまう。そして、自分が思いついたこと(着想)は、一度忘れてしまうと外部的なサルベージが不可能である。どれだけググっても、失われた自分の着想を見つけることはできない。だから必ずメモしておきましょう、というわけだ。
同様に、本を読むときも読書メモをつけることが進められる。本を読んでそのままにしておいても、やっぱり中身を忘れてしまう。だから、うまく思い出せるようにメモしたり、自分なりに内容をまとめておくと理解が進むという寸法だ。
これらも最終的な成果物に直接貢献するというよりは、それよりももっと手前のプロセス、言い換えれば基礎的な行為として位置づけられている。
結局のところ、仕事術においても知的生産の技術においても、共に「メモの重要性」は説かれている。そして、それぞれは発展的というよりは、基礎的な行為として扱われている。というよりも、メモが基礎的であるからこそ重要なのだという構図があるのだろう。
そして、仕事術や知的生産の技術以外の領域でも、メモは活躍するはずである。たとえば、家政(家の取り回し)、マネジメント、趣味、学業、トレーニング……。ひろく人間が情報を扱う場面であれば、メモが活躍する余地はかならず存在している。
いや、「活躍」と表現したが、おそらくそれはそんなに華々しいものではないだろう。むしろ「裏方として舞台を支える」とかそういうイメージが近い。
メモするだけで、具体的な成果を直接生み出すことはできない。しかし、その「成果を生み出す」という行為を背後から支える力がメモにはある。
だからこそ、メモには「あえて」注目する必要がある。華々しい表舞台から遠い場所にはフォーカスが当たりにくいからだ。また、メモがさまざまな場面でその機能を発揮することを考えれば、メモについて検討することの有用性は──単にメモ魔の趣味を越えて──高いと言えるだろう。
では、その「メモ」とは何だろうか。ひき続き考えていこう。(つづく)
(メルマガ『Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~』2024年2月19日号の一部抜粋です。本記事のつづき(2月26日号)をお読みになりたい方は、この機会に初月無料のお試し購読をご登録の上、2月分のバックナンバーをお求め下さい)
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