暴力によって歴史を寸断してもいいと考えるリベラル
問題は、フランス人があの表現を「誇り」だと思っているということだ。
開会式のショーでは、LGBTのダンサー(どらぁぐクイーンとかいうらしい)が名画「最後の晩餐」のパロディを演じるシーンがあり、「キリスト教を揶揄している」という抗議の声が挙がっている。
演出家は「多様性」を表現したかったと言っているようだが、これもやはり、フランス革命で宗教を否定したことに対する誇りが根底にあるのだろう。
いずれにしても、それがその国の誇りだというのなら仕方がない。フランスが、王も王妃も貴族も聖職者もギロチンにかけまくった、人殺しの過去を誇らしいと思っているのなら、それを他国の者がどうこう言うこともない。
しかしそれを見せられる側としては、特に日本人を始めとする今も君主制を採っている国民としては、眉を顰めたり、くだらないと思ったりするのは当たり前のことだ。きっとイギリス人だって、そう思っているだろう。
イギリスの哲学者で「保守思想の父」といわれるエドマンド・バークは最初からフランス革命を完全否定し、『フランス革命の省察』を出版した。
国家の歴史の上に長い年月をかけて醸成されてきた政体を、単に一時的な感情によるものかもしれない暴力によって倒すということに対して、バークは嫌悪感を持った。このバークの考えこそが、「保守」の出発点である。
一方、フランスの「リベルテ」を英語でいうと、「リベラル」である。
ここで改めて「保守」と「リベラル」の定義をしておこう。
以前、「保守」とは「右翼」、「リベラル」とは「左翼」を言い換えたものだと説明したが、今回はそれを少し違う表現で論じることにする。
リベラルとは、歴史の蓄積による知恵の力よりも、人間の「理性」の力の方が上位であるとする考え方のことだ。
リベラルとは本来「自由」という意味だが、ここでは人間の「理性」の赴くまま、自由に行動するという思想となる。
人間には価値観の基準となる「理性」というものが備わっていて、宗教より健全な、より良き観念で、人々をより良きところに導いていくものだというのが、リベラル思想の基本だ。
だから「理性」が望むのなら、自由に暴力を振るえばいいということになる。
一般的に暴力的な行動をとると「理性的ではない」などと言われたりするが、暴力も含めて人間の「理性」がより良き判断をして、より良き行動に移すものだと信じるのがリベラルであり、暴力によって歴史を寸断してもいいと考えるのがリベラルなのだ。
リベラルとは、そう定義するしかないものなのである。
このような本当のリベラルの定義を、日本でリベラルを自任している人は、よく考えた方がいい。
繰り返すが、人間の理性の力を信じるというのが、フランス革命に発するリベラルの考えである。
これに対して、人間の理性なんてものは非常に曖昧で、何も確実性や真実性はないと主張したのがエドマンド・バークであり、それが保守思想の原点となった。
つまり「保守」とは、人間はそんなに素晴らしいものではなく、間違うこともあるということを大前提として、それよりも先人が重ねて来た歴史の知恵の蓄積を大切にしようという考え方である。
バークの考察は、いま見ても当たり過ぎるくらい当たっていたと言うしかない。
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