犯罪利用や誹謗中傷など、とかく負の面がクローズアップされてしまうSNS。8月9日に公開された映画『スージー・サーチ』では、「バズりたい」「儲けたい」などの若者の欲が騒動を巻き起こし、ソーシャルメディアの「害」や「魔」が描かれていると警戒心を抱くのは、生きづらさを抱える人たちの支援に取り組む引地達也さんです。今回のメルマガ『ジャーナリスティックなやさしい未来』では、就労系福祉サービスに通う知的障がい者たちによるSNSのメッセージの交流のあり方を紹介。誰も反応を欲しがらず、「発信することが交わること」として共有されている貴重な場が、壊されることのないようにと考えています。
SNSでつながる「害」を分かり始めた社会で
平日の午後から夕方にかけて、私のスマートフォンの画面は頻繁にSNSのメッセージが表示される。そのほとんどが簡単な絵文字や「おつかれさまでした」「つかれたー」のひらがなだけで書かれている。そして、発信者が誰かはよくわからない。
わかっているのは、就労継続支援B型事業所を中心にした就労系の福祉サービスに通所する知的障がい者であること。おそらく精神障害者手帳保持者もいると思われるが、誰もが知的障がいがある前提で、このSNSでのコミュニケーションは成り立っている。
事業所で頑張った1日を家族以外の誰かに言いたい気持ちを、このSNSは受け止める。ここでは「おつかれさま」に対して、無理に反応する必要はないことで、無理なく参加し、そして他者とつながる場所として、発信することが交わることであり、それで誰もが十分に満足であることが、この場では共有されている。
通常のSNSは他者が反応することでその存在意義を高めてきたが、ここでは「おつかれさまでした」に対し、反応はしない。それにより、よい関係が保たれている。発信に対して欲しがらないことが、巷間の状況から考えれば真逆な印象だが、それがよいのである。大事なのは、自分が発して、それを受け止める場であることが保証されていることだ。
これは、テキストメッセージのやりとりが苦手な方々が多いことから自然に出来上がった規矩のようなものが、安心感を与えている。多くの人に見られたい、との欲望が渦巻くソーシャルメディアの世界からは遠い印象だ。
一般のソーシャルメディア利用には自己顕示欲や収入に結び付ける金銭欲にまみれたものが際立って日常的に目に飛び込んでくる。日本で今月公開された米国映画『スージー・サーチ』(2022年)は、そんなソーシャルメディア社会に心奪われ、名声を得ようとする若者を題材にした作品だ。その深刻さはソーシャルメディア発祥地の米国のほうが深刻のようである。
この作品は、私が専門とする「ケア」の視点で考察すると、違う一面が見えてくるから面白い(これは大学の講義で行う予定だ)。しかし、ストーリーを説明しなければならなくなるから、ここでは出来ない。ホームページに記載されたあらすじは以下である。
「ポッドキャストで未解決事件の配信を続けるものの、なかなかフォロワーの増えない孤独な大学生のスージー(カーシー・クレモンズ)。ある日、保安官事務所でのインターン中に、インフルエンサーとして絶大な人気を誇る同級生のジェシー(アレックス・ウルフ)が、行方不明になっていることを知る。
ジェシーがいなくなって1週間。独自の調査を始めたスージーは、なんとポッドキャストの配信中に失踪したジェシーを発見!番組は大きな反響を呼び、一躍脚光を浴びる存在になる。誰もが羨む名声を手に入れたスージーは、捕まっていない犯人を追って配信を続けるが、事態は思わぬ方向に転がっていき――」。
ついついのぞいてしまう誰かの投稿、次々とみてしまうショート動画――。日々、めくりめくソーシャルメディアからの情報の波に飲み込まれた私たちと社会。すべての人がおそらくソーシャルメディアの「害」を知っている。
そして、それらの情報に心が左右され、時には悪いこともしてしまう人たちもいることも知っている。『スージー・サーチ』はそんな日常の延長で起こる「魔」を描いている。知っていても、やめられない、バズろうとする行為。
このへんで私たちは「なぜか」を真剣に考えなければならないと思う。学ばなければならないと思う。知的障がいのある人が新しいコミュニケーションの場として、仕事を終えた後に「お疲れさま」が発信できる空間を壊さないように、大切な場所として機能させるために。
image by: 映画『スージー・サーチ』公式HP